文書14 おけさ笠

カラン………。

怪奇現象でいっぱいの家庭科室に溢れる音に慣れた楓の耳が目ざとくそれとは異なる異音を検知する。

うたた寝からぱっと意識を呼び起こした。

静かに、そして素早く調理台の下に潜り込み、教室をそっと伺う。


カラン………コロン………。

その音は教室の後ろのほうから聞こえてくるようで、段々と楓のいる調理台へと近づいてきた。

楓は固唾を飲んで教室の後方に目を凝らす。


やがて、一つの人影が暗闇の中おぼろげながら後方から確かに現れた。

しきりに調理台のほうを気にしている様子で、この異常に慌てる素振りは見せない。

いったいどうやってこの家庭科室へと侵入したのだろう?

家庭科室に入る入り口は教室前方の引き戸だけ。

壁をよじ登って窓からでも入ったというのだろうか。

そうして楓が思索にふける間にも、段々とこちらへ近づいてくる。


その時、月にかかる雲が風に流され白い月光がその人影を照らした。

楓が思わず息を飲む。

その姿にあまりにも見覚えがあったからだ。


そこには、おけさ笠で顔を隠し白の狩衣に身を包んだ、夢の中と全く同じ不気味な人影が佇んでいた。


白いうなじが闇夜に輝く。

気味が悪いのに、なぜか一種の美がそこにはあった。


一つ一つの蛇口から水滴が垂れていることを確認するかのように手をシンクの上に伸ばしている。

それは、まるで異常が正常に機能しているかを検査しているかのようであった。

足元の一本歯下駄が軽快な音を響かせて自分が息を潜める調理台のすぐ横を通り過ぎていった。

そしてそのまま家庭科室の出口である引き戸へと向かっていく。


まずい、このままだと逃がしてしまう。

しばらく躊躇した後、楓は意を決して調理台の下から飛び出して、その人影の前に立ちふさがる。


「突然藪から棒にすみません。でも、少しお尋ねしたいことがありまして。」


楓がなるべく丁寧に話しかける。

しかし、その狩衣の人影は黙りこくっていた。


「家庭科室で起こっているこの異常な事象について、なにかご存じないでしょうか?」


まったくの沈黙のみが返ってくる。

めげずにもう一度楓は話しかけてみる。


「すみません、私の声が聞こえますでしょうか? 頷きでも返して頂けるとありがたいのですが。」


問いかけた後は静寂が家庭科室を支配した。


もう一度だけでも声をかけてみようと楓が口を開いたその時、それをさえぎるように狩衣の腕がそっと持ち上げられる。

ゆらりと、至極色の袖が怪しげに揺れる。

すらりと艶やかな手がのばされ、楓はついつられて目で追ってしまう。

パッと開かれたその手には何も握られていなかった。


次の瞬間、流水のように滑らかな動きで不審者が踏み込んでくる。

っ! 逃がしはしない!

近づく相手にむかって楓が手に持つ木刀を横なぎに打ち込もうとする。

が、視界が白に染まった。


薄力粉だ。


その人影はもう一方の手に隠し持っていた袋の中身を楓の目元に向けてぶちまけたのだ。

家庭科室に一瞬たちこめた白煙から飛び出す影が一つ。

迷いなく逆袈裟を見舞った。

が、帰ってきたのはおおよそ人体のたてるはずのない金属音だった。

飛び出してきた寸胴鍋とは真逆の方向を白い影がすり抜ける。


な!


いともたやすくあしらわれたことに驚きをあらわにしてしまう。


不審者はそのまま引き戸をガラリと開け、外へと逃げていく。

のがすものか、その一心でくらいつこうと楓もまた廊下に転がり出る。

廊下はまたもや白い煙で満たされていた。

構わず煙の向こうに薄れる紫のその背中を追いかける。

と、床に転がる何か重いものに躓き、体勢を崩す。

よろけるさなか、そのかすんだ視界に映ったのは消火器であった。


まずい、このままでは逃げ切られてしまう!


そう立ち上がった楓に残されているのは無茶な選択肢だけだった。

躊躇いもなしに廊下の窓を開け放つ。

その下には普段手入れしている花壇。

他の園芸委員には申し訳ないので、また今度謝っておこう。

そう言い訳しながら窓から飛び降りる。


ふわりとした数秒の浮遊感の後、垣根の上に自由落下した。

丁寧に整えられたその花壇を滅茶苦茶にしてしまいながらも、追いついた。

目の前には驚いた様子の人影。

だがすぐに我に返ったのか、脇につきたてられた長柄のスコップを掴むと、こちらに振り落としてくる。

その鈍器をすんででかわした時、目の前に迫るフォーク。

頬を掠めて切り傷をつける。


姿勢を立て直して最高速の突きを喉元に目掛けて放つ。

が、逸れる。

いつの間にか木刀に木べらが添えられていた。

離れざまに目つぶしに砂利や小石を目元にかけられる。

仕切り直しと言わんばかりにおけさ笠の不審者は大きく後ろに飛びずさった。


青白い月に照らされて校庭に二つの影が向かい合う。

一方は木刀を中段に構え、もう一方は無手。

対照的な二人の間に静寂が漂った。


「あなたは、何者ですか。」


そう楓が問いかけてみるも、帰ってくるのは沈黙のみ。

このままでは埒が明かない。

隙をつかれてみすみす先手を取られるぐらいなら、こちらから仕掛けるべきか。


じりじりとにじり寄っていく。

手に持つ木刀を腰だめに構える。

いつもの修練の通り、一瞬でかたをつける。


楓が腰を低く落とす。

そのままじっと動かない。


永遠にも思える長いそのひと時は、月光が流れる雲に遮られ辺りが薄暗くなった瞬間、唐突に終わりを迎えた。


地面を滑るように低く、楓が相手にむかって踏み込んでいく。

腰だめに構えた木刀に渾身の力を籠めていく。

相手は無手の自然体をようやく崩した。


春風のように軽やかにそっと相手が脇に踏み出して体を開く。

たったそれだけで見事にそして滑稽なまでに、渾身をこめて放たれるはずの一撃の軌道から■■■■■■■逃れてみせた。

相手の目が驚愕で見開かれる。

まるでもともと一歩も動いてすらなかったかのように相手は自身がこちらの間合いからまったく出られていなかったことに気がついたのだろう。

相手が一瞬戸惑い、混乱するのが手にとるようにわかる。


その時、わずかに隙の光明が見えた。

ここだっ!

楓の全身に貯めこまれた力がバネのように跳ねる。

腰の得物が、瞬間、解放される。

まるで稲妻のように素早い切り上げが放たれた。

十分人を行動不能にしうる威力を秘めたその一撃は吸いこまれるように相手の胸元にむかっていき、


見事に中空を空振った。


「なっ!」


いつの間にか、楓と相手の位置が入れ替わっていた。

理解ができない。

すり抜けられたとか、避けられたとか、そういった次元の話ではなかった。

文字通り、入れ替わったのだ。

二人の位置が一瞬にして交換されたのだ。


狐につままれたように楓が茫然とする。

互いに背中合わせの形で、濃密な、しかし短い一瞬の交錯は終了した。


ふと気がつくと、あの不審者がいつの間にか消えていた。

自分が困惑している間に逃がした、か。


楓はぐったりとして空を見上げる。

学校を囲む木々の梢がうすぼんやりと明るくなっていた。

夜明けが近い。

嫌な汗で全身がびっしょりしている。


あれは間違いなく、楓と同種の力だった。

科学では説明のつかない人智を超えた異能。

まさか、楓以外にそんなものが存在したとは。


何はともあれ、どうやらあの夢は単なる夢で終わらないことは楓には嫌というほどはっきりと分かった。

依然として楓の手のひらが打ち合った時の痺れを覚えている。

あの夢の中のおけさ笠の人物を現実でないと考えるのは、どうにも無理そうだった。

そして、あの異能と思しきもの。

今まで出くわしてきたオカルティックな出来事には楓と同じように摩訶不思議な力をもつ者たちが関わっているらしかった。


そこまで考えてはっとする。

そういえば、あの夢にはグレイスも出ていたじゃないか。

クチナシの祠の件といい、あの幼馴染が楓以上に何か知っていることは確実だ。

釘を刺されたときの剣幕で躊躇っていたが、もはやそうも言ってられないだろう。


明日、いやもう朝だから今日か、楓は必ずグレイスに話を聞こうと決心した。

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