文書32 忍び寄る異変

「もう止めて、おばあちぁん!」


外からの怒声に、車の窓ガラスが微かに振動した。

突然の大声に楓もヒルトルートも飛び上がってしまう。

その後も車の外からは喧騒が止む気配を見せない。


楓とヒルトルートは顔を見合わせた。

いったい何が起きているのだろう?

楓が車の扉の鍵を外して外に出ようとするが、ヒルトルートに制止される。


「楓は車の中で待っていてください、まだ病み上がりでしょう? 自分が様子を見に行きます。」


そうヒルトルートが言い残して車の外へと出ていく。

萌葱色の割烹着がトラックの裏へと消えていった。


病み上がりなのは確かに事実なので、楓は渋々車の中に留まった。

しかし、嫌な予感がしてまったく落ち着かない。

何台も止まっているトラックのほうを伺っても、ヒルトルートが姿を現す気配はまったくなかった。


車内の静寂が耳に痛い。

しばらくして、楓は痺れを切らしてしまった。

そっと静かに車のドアを開けて、トラックのほうへと忍び寄っていく。

ヒルトルートに見つからないようトラックに身を隠してそっとトラックの前のほうを覗き込んだ。


その瞬間、老婆と目があった。

髪の毛はざんざばらばらに散り、目は落ち窪んでいる。

口元はだらしなく半開きで、時折意味の分からない戯言を口走っていた。

この世の物とも思えぬ悍ましい姿の老婆がそこにいる。


思わず楓はばっとトラックの影にしゃがみこんで隠れてしまう。

しばらくドキドキと激しく鼓動する胸を静める。

しばらくして、何も起こらないことに気がつく。


楓はゆっくりと体を起こしてもう一度トラックの前のほうを覗き込んだ。

再び、あの老婆と目があう。

しかし、何もしてはこない。

楓は何かがおかしいことに気がついた。

老婆の瞳に楓が写っていないのだ。


老婆はただひたすらアスファルトに零れ落ちた稲わらを拾い集めていた。

トラックで運んでいる最中に車道に落としてしまったのだろうか、老婆の背後には稲わらを一杯に積み込んだトラックが路駐している。

この道は車一台通るのもやっとという細い道だ。

あのトラックが障害となってこんな何もない田んぼのド真ん中で渋滞なんてことが起きているようだった。


しかし、楓は疑問を抱いた。

あれぐらいの稲わら、皆で拾い集めれば一瞬で終わるのではないだろうか?

現にあの老婆一人だけで十分に人手は足りたらしく、路上に散乱していた稲わらはほとんどがトラックの上に納まっている。

しかし、次の瞬間、楓は信じられないものを見た。


         ゞゞゞ


トラックに積まれた稲わらがいつの間にかゴッソリと減っていて、路上は一面が黄金の稲わらで埋め尽くされているのだ。

それを老婆は感情が抜け落ちた無機質な目で見つめ、再び拾い集めるのを始めた。


「これは、異能だ………。」


楓ははっきりと記述に謎の記号が書き込まれたのを確認した。

この記号は嫌というほど見覚えがある。

祠の周囲を監視していた時、繰り返しが起こるたびに記述されていた記号だ。

つまり、これは相手が新たに設置した異変………。


楓はふと、稲わらを拾い集めているのが老婆だけではないことに気がついた。

周囲には数人の老人が地面に這いつくばって、一心不乱に稲わらを掻き集めている。

その脇で一人の中年の女性が憔悴しきった様子で座り込み、ヒルトルートが何やら声をかけていた。

疲れ切った言葉が女性の口から漏れ出る。


「もう、ずっとこの調子なんです………。

こんなことおかしなこと、どうなるか分かんないからほっとけって言っても聞く耳持たなくて。

あばあちゃんは別にボケてなかったのにもう今では私すら覚えているのか危ういなんて、異常です。

もう二日は何も口にしていないんですよ、このままなら、私………!」


だんだん声が震えていったかと思うと、女性は最後にはとうとう顔を手で覆って啜り泣き始めた。

痛切な嗚咽が、真っ青な秋空の下どこまでも広がっていく。

やがて、女性がゆっくりと顔を上げた。


その顔を見て、楓は息を飲んだ。

目からは生気が消え、どこか人として大切な何かが抜け落ちてしまった表情をしていたのだ。

その女性は、もはや人には見えなかった。

タンパク質を詰め込まれたゴムのように機械的に立ち上がる。

そのままふらふらと老人たちに歩み寄り、しゃがみこんだ。


         ゞゞゞ


女性が稲わらを拾い始める。

他の老人達と同じように。

なんにも考えていないような、茫洋とした表情を浮かべ。


そこで、楓は悟った。

この女性も異能に取り込まれてしまったのだと。


楓は傍観するしかなかった。

無駄だと痛感していたからだった。

繰り返しの異能を否定するなんて、何度も祠で試した。

結果は全敗。

異能者としての格差が残酷な現実を楓に突き付けていた。


ぐっと歯を食いしばる。

ついに、相手の異能は人間を襲い始めた。

これは、楓の責任だ。


         ◆◆◆


ヒルトルートはしばらく稲わらを拾う人々に声を掛けて回っていたが、諦めたように車のほうへと歩いてくる。

楓はヒルトルートになんとかバレずに車に先に戻ることができた。

運転座席に腰を下ろしたヒルトルートはどこか怯えているようだった。


「何があったんですか、ヒルトルートさん。」


楓が無知を装ってヒルトルートに尋ねる。


「いいえ、何も。どうやら稲わらを路上にバラまいてしまったみたいで………。

迂回しましょう、この道は駄目なようです。」


楓に返事するヒルトルートの声はどこか震えていた。


         ◆◆◆


楓が風呂から上がると、深刻な表情をしたヒルトルートが固定電話に張り付いてメモを一心不乱にとっていた。

ちょうど終盤に差し掛かっていたようで、ヒルトルートがガチャンと通話機を戻す。

そのまま楓を居間に手招きした。


楓がちゃぶ台に座ると、ヒルトルートが思い詰めた様子で楓の手をぎゅっと握った。


「いいですか、落ち着いて聞いてくださいね。

今、町内会の会長さんから電話がかかってきて、とても悲しいことが分かりました。

村のあちらこちらで集団の精神異常が起こっています。

何十人という単位で気が狂ってしまったんだとか。

被害にあった人は全員呆然自失の状態で同じことを延々と繰り返し続けていて、ろくに意思疎通も叶わないそうです。

それで、その中にはあなたの同級生も数多く含まれています。

今町内会の会長さんに聞いたんですが、その内訳は………。」


ヒルトルートが手元のメモ帳に目を落とし、一人ひとり名前を読み上げていく。

全員、聞き覚えがあった。

楓の脳裏にまざまざとその顔が思い浮かんでくる。

全員、聖人ではなかったけれどいい人だった。


楓は初めて、実感した。

自分たちに課せられていた重責を。

自分たちが敗北したことの意味を。

楓が一歩退けば、その分周りの人々がどんどんと傷つけられるのだ。


「楓、これからは決して黄色い規制線テープが張られているところには近づかないように。

今回の集団パニックはなぜか伝染していく性質を持っているそうです。

いいですか、他人の命とあなたの命、天秤にかけなければいけなくなったなら、躊躇なくあなたの無事を優先しなさい。

命は失ってしまったらもう二度と取り返しのつかないものなんですから、躊躇ってはいけませんよ。」


ヒルトルートが楓の目を覗き込んで懇願するように言った。

きれいな、透き通るような緑の目。

楓は目をそらした。

口の中で、ごめんなさい、と声にならぬ謝罪が漏れた。


楓はどうにもその約束だけは守れそうになかった。

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