文書33 日常の崩壊

翌日から、楓は登校を再開することになった。

心配で今にも死んでしまいそうな顔をしていたヒルトルートを家に残して、すっかり稲が刈り取られた田の中を歩く。


遠くに黄色い規制線テープで厳重に四方を閉じられた家が見える。

あそこには誰が住んでいたんだっけ。

そうだ、あの柔道バカの家じゃないか。

ふと、楓はとある同級生の名前を思い浮かべて、昨日の記憶を呼び起こしてしまった。

彼は一家全員が異変に囚われてしまったそうだ。


今、あの家の中で彼は何をしているんだろう。

いつも明るく大騒ぎして笑みを欠かさなかった彼は今どんな表情をしているのだろう。

楓の柔らかい心の内面を残酷な想像が切り刻んでいく。


楓は自分を責め立てる心に蓋をするように目を背けた。

そうしなければ、罪悪感で自分が圧し潰されてしまいそうだった。


         ◆◆◆


楓が高校に登校すると、クラスはいつもより静かだった。

パラパラと散らばってクラスに空席がある。

いつもの朝の風景にいたはずの人がおらず、そこにはポッカリと隙間がある。


平静を装って自分の席に着いた楓は、ふと自分の前後左右すべてが空席なことに気がつく。

あの日の放課後。

それが最後に彼ら彼女らと会話した時だった。

全員、異変に呑まれた。

今頃は生気を失って永遠に続くループに服役しているのだろう。


全身が重くなる。

罪悪感、後悔、責任。

全てがひしひしと楓の胸の奥を切り刻む。


         ◆◆◆


ラディムが滅多に見せない真剣な表情でクラスを見渡した。


「おい、知ってると思うがこの村のあちこちで集団パニックというかなんというか奇怪な現象が起こってる。

行政にはもう役場から話がいっていて、一か月後に東京から精神科と感染症専門のお偉い先生方がやってくるそうだ。

今のお前らに出来ることはな、自分が新しい被害者にならないこと、それだけだ。

一つに、決して異変が起こってる所には近づくな。

二つに、常に複数で固まって行動し人目の多い所に居続けろ。

三つに、日中に行動し夜は家に籠れ。」


ラディムの普段と違って朗々とした声がクラスに響く。

常日頃はふざけた態度をとっているが、ラディムは肝心な時はきちんとやる教師だ。


「いいか、お前らがふざけて妙なことに巻き込まれてどうなろうが俺は知ったこっちゃない。

お前らの人生だ、好きなように使え。

だがな、他人に迷惑だけはかけんな。

お前らが勝手な行為をしたとして、それの尻拭いをさせられる連中と遺される奴らがいることを常に考えろ。」


ラディムがクラス全体を睨むように見渡した。

誰も、茶化さなかった。

全員、分かっているのだ。

これは本当に深刻なのだと、下手をすれば自分も巻き込まれかねないと。


妙に殺気立つ教室を出て、ラディムは深い溜息をついた。

じっと、出席簿を眺める。

名前の横に几帳面な文字で様々な場所のメモが走り書きされていた。


「んで、こいつらは居場所が分かっていて、と。

で、この二人は行方不明か。

まったく俺に手間かけさせんなよな。

………俺、ほんとお前らのこと嫌いだわ。」


人気のない廊下で寂しそうにラディムが呟いた。


         ◆◆◆


ラディムが去った後の教室は、シンと静まり返る。

コチコチと黒板の上の時計が時を刻む音だけがやけによく聞こえた。

その静寂を破り、初月がガタリと立ち上がる。


「それにしても、ズル休みさんは幸運でしたね。」


鈴のような澄んだ声が教室に広がった。

その声色とは真逆に言葉は悪意が塗りたくられている。

一瞬、楓は誰のことか分からなかった。

初月が、足取りも軽やかに楓の席まで歩んでくる。


「たまたまグレイスさんと一緒に山に遊びに行って怪我したんでしたっけ?

グレイスさんは喉元に木の枝が突き刺さってあと数週間は登校もできないのに、あなたはたったの二、三日で退院してすぐに登校再開ですか。

その幸運を僕にも分けてほしいものです。

………ああ、でもそれって本当に運が良かっただけなんでしょうか?」


初月が楓の顔をニヤニヤと覗き込んだ。


黙って相手にするな、そう楓に理性が語りかけてくる。

今怒った素振りを見せればそれこそ初月の思う壺だと。

いつも通りの初月の嫌味だ、そう楓は自分に言い聞かせた。


「あなたが退院したちょうどその日からこんなことが始まってしまうなんて災難でしたね。

でも、ああ、よかったですねぇ。

あなたは無事でなんともなかったんですから。

本当にあなたは幸運だ。

………あなたの周りの人にもその十分の一の幸運があればよかったんですがね。」


そんな穏便に済ませようという考えはすぐに吹っ飛んでいった。

初月の挑発するような言い草も普段の楓なら受け流せただろう。

しかし、今の楓は自責で心がどうにかなってしまいそうだった。

もう耐えられない。


「何が言いたいんですか、室長。」


睨みつける。


「いいえ、別に何も?

ただ、あなたの周りでは不幸なことばかり起こる事実を述べただけですが?」


「室長!」


一人のクラスメイトが初月を非難するような声色で声を上げた。

初月は肩をすくめ、教室の扉へと向かっていった。


「僕はあんな疫病神に祟られたくないので、失礼しますよ。」


捨て台詞を吐いて教室を出ていく。

途端、楓の周りに旧友が集まって励ましや同情の言葉をかけてくれる。

しかし、その言葉が楓に届くことはなかった。

楓は深く、深く自身の内に沈み込む。


初月の言葉は正しい。

自分は疫病神と呼ばれても文句は言えないだろう。

もっと力が、力が必要だ。

楓はぎゅっと拳を握りしめた。

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