文書34 ヒルトルートの剣

土曜の朝。

耳元でけたたましく鳴る目覚まし時計を沈黙させた後、楓は一人静かに覚悟を決めた。


「久しぶりの休日………っ! しかも、楓と一緒にだなんて!」


居間にいくと、ヒルトルートが嬉しそうにばっと木製の雨戸を開けていた。

朝の陽ざしがさっと差し込んでくる。

ヒルトルートはここ最近仕事が忙しいらしく、日中はほとんど街に出掛けていて夜遅くに帰ってくるのがほとんどだった。


「今日は特別に自分がごはん全部作ってあげますよ! 感謝してくださいね!」


ヒルトルートは割烹着姿でこちらに駆け寄ってきた。

にぱっとした笑みを向けられる。

と、楓の表情を見て、その笑みは怪訝げな顔つきに取って代わった。


「………どうしたんですか? 楓。何か嫌なことでもあったんですか?」


「いえ、別に。」


「それならいいんですが………。

ま! それじゃあ先にこたつに座って待っててください、楓に料理の腕前の差って奴を見せてあげます!」


ヒルトルートが踵を返して台所に向かう。


楓は覚悟を決めた。


「ヒルトルートさん、自分にもう一度剣を教えてください。」


次の瞬間、ヒルトルートの動きがピタリと止まった。

ついに言ってしまった。

楓は鼓動を速めながらヒルトルートの言葉を待った。


「それは冗談ですか、楓?」


底冷えするような声がした。

日中なのに、気温が数度下がったような錯覚をする。


「いいえ、本気です。」


楓はなんとか言葉を口にできた。

ヒルトルートが楓に振り向く。

その表情は今までの柔らかなものとは違い、厳しく、そして冷たい。


「あなたごときにこの剣は教えられない、そう結論付けたはずですが。」


一言一言、突き付けるようにはっきりとさせる口調が楓に突き刺さる。

まるで心を折りにかかるようなヒルトルートに楓は怯んだ。

一瞬撤回しようかとすら考えたほどだ。

しかし、踏みとどまる。

自分が何のためにこんな願いをしたのか。

自身の罪を償うために、だ。

楓はヒルトルートの目を見つめて、言った。


「もう一度、機会をください。」


         ◆◆◆


楓が日々修練している剣術は古くから邑神家に伝わる古武術の一種で、神事などで奉納される。

伝承者である父の死によって楓は書物から学ぶことを強要され、その剣術を習得するには多くの困難がついて回った。

そんな時、武術に通じているというヒルトルートは何度も楓を手助けしてくれた。

そんなヒルトルートの修めたという武術に興味を持ったのは、楓が小学生の頃であった。

ヒルトルートに頼み込んで師と仰ぎ、修行を始めた楓は………。


僅か三日で習得を諦めた。


ヒルトルートの修めたという剣術が余りにも残虐で殺害を主眼とした武術だったからだ。

目を狙うのは当たり前、足払いや砂をかけての目潰し、とにかく何でもござれ。

ドイツで開発されたというその剣術は、いわゆるサーベルにおける決闘でルールの抜け穴をついて必ず相手を殺害することに全霊を注いだ、騎士道も武士道もへったくれもない殺人術だった。

当時は相手に一滴でも血を流させた時点で決闘を終了するという規則がある程度広まっていたため、初撃で敵の息の根を絶つことを目標とした卑怯極まりない剣。

ヒルトルートが示すあまりにも惨い攻撃方法に楓が躊躇し、まったく修行にならなかったのだ。

楓はその時点で剣術を継ぐに能わずと判断され、ヒルトルートにもう二度とこのような甘い申し出をするなと言い含められた。


しかし、今となってはなりふり構っている暇はなかった。

邑神家の剣術は確かに古くの殺人技術としての剣の性質も伝わっていたから、楓は最低限敵と張り合うこともできた。

しかし、あの奇妙な装束の人間、ケレオットの悪魔と相対してそれでは不十分だと知った。

ケレオットの悪魔がつかう剣術は本当の殺人剣だった。

多少の武術の心得がある楓だからこそ、自身の無力を悟った。

結果、村の人々に数多くの犠牲を出した結果になった。

手段を問う段階には最早なかった。


         ◆◆◆


「邑神家の剣術で大体の基礎は出来ていることを前提とします。

よって、その剣術でも狙わないような急所を訓練しましょう。

まずは目を狙う練習です。」


秋の肌寒くなってきた昼。

庭でまったく感情を見せないヒルトルートの声がする。


「目は深く突けば脳にまで到達する、究極の急所です。

さらに防具などで防ぐにも限界がある、最高の部位。

しかし、そもそも面積が狭いため、高度な集中力と覚悟がいる。」


つまり、とヒルトルートが手元の木刀を手に取り。

一切の躊躇もなく木刀を牛の目に突き入れた。

ぐちゃり、と嫌な音がして、木刀が牛の頭部に沈み込んでいく。


「人の目を狙う、という行為を空気を吸うように行える必要があります。

残念なことに本当の人間で練習するわけにはいきませんので、牛で妥協します。」


では、もう片方の目はあなたにやってもらいましょう、と血の滴る木刀を渡される。

楓は理解していた。

これがある種の試験なのだと。

楓が感情や倫理を捨ててただ目の前の敵を殺害する機械となれるのか、それをヒルトルートが試しているのだと。

でなければ目への突きという最も心理的障壁が高い攻撃を最初にするはずがない。


「私の合図と同時に、躊躇なくやるように。

もし少しでも躊躇うようならば容赦なく修行は打ち切らせて頂きます。」


ヒルトルートの緑の目は、普段の活発な光はなく、ただただ見る者を奈落の底に吸い込むようだった。

木刀を持って目の前の牛の頭に向けて構える。


片目を無残にも崩壊させた牛が恨めしそうに楓を見つめる。

死んだ動物特有の無機質なもう片方の目に楓は集中した。

感情を殺す。

目を通って脳まで。

頭の中で何度も言い聞かせる。


ヒルトルートが手を叩くと同時に体が飛び出す。

手に伝わる感触はどこか生温かった。


         ◆◆◆


「………まぁ、よいでしょう。

本当ならば親密な間柄の親兄弟を二、三人連れてきて殺させるのが伝統なのですが、そんな時代錯誤的なことは流石に出来ないので。」


ゲーゲー吐いている楓の横でヒルトルートが告げる。


「いいですか、今あなたがそうやって吐瀉物をまき散らせているのはあなたが眼球、ひいては脳を破壊し相手を無力化できているからです。

死ねば、吐くこともできません。

殺される前に、殺しなさい。相手の命など屑以下です。」

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