文書36 ラディムの小間使い

「おい、お前。暇そうだな。」


放課後、これから下校しようと制鞄を肩にかけかけた楓にラディムが声をかけた。


「いや、今日は用事がありまして。」


楓は嫌な予感がしてすぐさま否定する。


「ほう? どんな用事だ?」


これはまずいことになった。

まさか馬鹿正直に異変の調査ですと答えるわけにもいかず、楓は何か他の予定をでっち上げる必要があった。


「ええと………。その、庭仕事をしなくちゃいけなくて。」


無論、嘘だ。

パッと頭に浮かんだ直近でしなければいけないことを挙げただけで、今日する予定はもちろんない。


「へぇ~、お前は雨に打たれながら庭木の剪定をするわけだな。」


あ。

しまった、しくじったぞ。

楓は今日が雨模様であることをすっかり忘れてしまっていた。


「俺を嘘で誤魔化して手伝いサボろうとしただろ、お前。」


じぃーっと責め立てるような目つきでラディムに睨まれる。

楓はアハハと苦笑いを浮かべる他なかった。


         ◆◆◆


「明日、高1のガキどもと粘菌育てるっつう実験させるんだが、六班に分けてやらせる都合上、培地もその分作っておく必要があってな。」


化学準備室の戸を鍵で開けながら、ラディムから具体的な用事の内容を伝えられる。

この学校は生徒の人数に比例して教師の人数も少ないため、こうやって複数の教科を担当する先生も珍しくない。

ラディムも生物を下級生に教えているんだろう。


「生徒に危ない薬品を触らせていいんですか?」


楓が最後の抵抗を試みる。


「バカ、粘菌の培養にそんな危ないもん使うかよ。寒天培地で十分だ。」


それもそうだ。

妙に納得してしまった楓は準備室の中へと引きずり込まれた。


        ◆◆◆


ラディムが薬品庫から取り出した粉末状の寒天を、楓は電子秤を使って丁寧に量り取る。

1.8g、1.9g、2.1g………。少し超えてしまった。


「先生って、この学校に来る前は医者だったんですよね。」


ウィーン、ウィーン、と恒温器が静かな化学準備室に駆動音を響かせる。

ラディムは相変わらず気怠そうに、電子秤で粉末状の寒天を量っていた。


「ああ、そうだ。」


なんでもないように返事される。


「どうして、辞めちゃったんですか?」


何の気なしに尋ねてみた質問。

背後からカタリ、と薬さじを置く音が聞こえた。


「………ユーゴスラヴィアって国、知ってっか。」


どうやらラディムはもうすでに自分の分の量り取りは終わったらしい。


「昔、ヨーロッパにあった国ですよね。」


ユーゴスラヴィア。

その名前を聞いて、もう既に察しがついてしまう。


「ああ。昔、あそこで俺は医者をしていて、地獄を見た。」


「………内戦、ですか。」


かつて楓がシャマシュと道場で話した時。

楓はシナリオの目論む世界など信じられないと、そう感じた。

血を血で洗う戦乱の世界など考えもできないと。

ただ、この世界にも戦争がなかったわけではない。

この世界にもあったのだ、泥沼でいつ終わるとも知れない地獄のような戦争が。

世界が初めて経験した、民族紛争。

それが、ユーゴスラヴィア内戦だった。


「お前も知っている通り、ユーゴスラヴィアは土地が別に肥沃なわけでもなく資源も少ない、それに加えてまとまりもない、存在することが奇跡なんて国だった。」


七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。

そう形容される無数の人間の集団がひしめく国家。

ユーゴスラヴィアは常にまとまりがなく不安定だったが、それぞれの集団が互いに互いを理解しようと努め表立った対立には発展することはなかった。

長年をかけて築かれた多様な集団間の絶妙なバランス。

それが崩れるのは実に一瞬だった。


ラディムがガスバーナーとビーカーを戸棚から取り出す。

そのまま、ビーカーを加熱して水道水に量り取った寒天の粉末を溶かし始めた。


「始まりは権力闘争だった。

腐った政治家共が支持率を上げようと民族対立を煽った。」


その後はあっという間だ。

ラディムがビーカーの中身をかき混ぜながら班z氏を続ける。


「憎悪が憎悪を呼び、強者が欲望をむき出しに暴れ回って後には弱者の死体の山が築かれた。

医者をしているとな、分かったよ。

いつの時代だって苦しむのは弱者だ。

年寄り、子供、貧乏人。

普段から社会に絞りかすになるまで搾取されて、片隅で身を寄せ合って震えていた哀れな奴らだけが病院に運ばれてきた。


それが俺には我慢ならなかった。

どこそこの民族は害悪だなんて叫ぶ奴らは皆貧困とは縁遠い連中で、不思議なことに自分でそのにっくき敵対民族を殺しに行こうとはしない。

そもそも兵士になるのは戦争で生活を破壊されそれしか生きる術を見出せなくなった連中ばっかだった。

そんな連中が後方でぬくぬくと憎悪と偏見を喚き叫ぶ奴らの指示でどんどんと物言わぬ肉片に加工されていくんだ。

ふざけた話だろ?

冷たい平原で自分の体温が奪われて死んでいくのなんか想像できない奴らが、適材適所だなんだとほざいて指揮官として偉ぶってふんぞり返ってるんだ。」


楓は静かにラディムの話に聞き入っていた。


「俺は医者として出来ることはなんでもやった。

出来うる限り多くの人間を救おうと必死になった。

でもそれにも限度っていうものがある。

戦争っていうのはな、何をどう取り繕っても人殺しだ。

人が、人を殺し、人が、死ぬんだよ。」


俺は弱かった、耐えきれなかった、だから。

段々とビーカーの中の寒天溶液が透き通った黄みがかった色合いになっていく。


「俺は逃げた。

戦争が終わった後、何も見たくなくてこんな遠くまで逃げてきた。

でも、俺は後悔してない。

そのままだったらイカレて廃人かヤク中になってただろうからな。」


いいか、お前も逃げていいんだぞ。


ラディムがビーカーの中身をシャーレに流し込み始めた。


「後は俺がやる。お前はとっとと帰れ。

ああ、保護者さんには連絡してるからな、帰るの遅くなるって。」


         ◆◆◆


楓は一礼して準備室を出る。

扉を閉じた瞬間、ふぅっと溜息をついた。


楓の調子がおかしいことはとっくにラディムにはお見通しだったらしい。

不調の原因がこの異変を気に病んでいることだと気がつかれるとは、予想外だった。

普段からもこんな感じで生徒にお節介をしていたんだろうか。

楓は思わず少し笑ってしまった。

いつもは嫌いだ嫌いだと公言してはばからなくとも、ラディムは生徒をよく見ているし気にかけているのだ。

それがなぜか少し滑稽だった。


ラディムが何を言いたいのかは分かっていた。

辛いなら考えるのを辞めればいいし、なんならこの村を離れてもいいじゃないか。

そう言いたいのだ。


ただ、楓はそんな風には生きられそうになかった。

今も、胸の奥で何かドロッとしたものが絶えず楓を締め上げている。

見て見ぬふりは、楓にはできない。


「ありがとうございました。」


楓は準備室の白い扉にお辞儀をしてから、そっと静かで薄暗い廊下に足を踏み入れた。

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