文書13 夜の家庭科室

楓がそっと力をこめると僅かな隙間があく。

どうやら鍵はかかっていないようだ。

正直、職員室に忍び込んで鍵を拝借しなければいけないのかと思っていたから、ほっとした。


昨日の家庭科室を思い出して楓は思わず自宅の道場から持ってきた木刀をぎゅっと握りしめる。

こんなものが役に立つのかは分からないが、無いよりはましだろう。

ゆっくりと扉を開けながら隙間から中の様子を伺う。

昨日と同じく、何も変わったところなどない普通の家庭科室の姿がそこにあった。

すくんでしまってなかなかいうことを聞かない足を無理やり引きずり、半開きの扉から家庭科室に入り込む。

後ろ手で扉を閉めながら木刀を油断なく中段に構え、あたりを警戒する。


青く澄んだ大空が窓の外に広がっている。

それとは対照的に、薄暗い教室の中は空気が澱み、陰鬱な雰囲気が漂っていた。

壁を背に伝っていきながら楓がゆっくりと黒板のあたりまでたどり着く。


先生が使う調理台の前に立ちながら教室を見渡す。

食器棚には多種多様な調理器具や食器が整然とおさめられている。

調理台は九つ、それ以上でもそれ以下でもない。

ごみ箱の中はきれいに片づけられ、なにも捨てられてなどいなかった。

正常だ。

まるで昨日の出来事が夢のように思えてくる。


しかし、あれは現実にあったのだ。

そう楓の直感が訴えかけてくる。

それに、細見の一件。

まだ、楓が体験した怪奇現象の一環だと確定したわけではないが、あれは実際に痕跡がはっきりと残されているのだ。


流石にずっと気を張っていてはもたないので、すぐには異常が発生する気配がないとわかって楓は構えを解く。

木刀を片手にして、調理台の下に潜り込む。

教室の中で突っ立っていては、誰かが入ってきた時にすぐに見つかってしまう。

先生が実演するための調理台は大きなものだったので、さほど窮屈でなかったのがありがたかった。

そのまま息を潜めて楓はじっと教室の様子を伺う。


一分たち、

十分たち、

一時間がたった。

しかし、なにも異常はなかった。

終いには窓の外はすっかり暗くなり始め、最終下校時刻を告げるチャイムが自分を除き誰一人いない家庭科室に響いた。

教室は暗く、闇に閉ざされようとしていた。



そうして学校の明かりが落ちてから暫くして、夜間の見回りが始まったようだった。

家庭科室に続く一本道の廊下を靴音が近づいてくる。

脇の教室を調べるために立ち止まっているのだろうか、時折その足音が途絶える。

しかし、着実に家庭科室に近づいていることは確かだった。

そうしてとうとう家庭科室の前で足音が止まった。

扉の隙間から見回りの用務員さんの持つ懐中電灯の明かりが漏れいる。

息を殺してじっとしていると、なぜか家庭科室の戸締りすらも確認せずにさっさと次の階へ移っていったらしく、足音が遠ざかっていく。

それからは二度と見回りがやってくることはなかった。


そして、それと同時に、コトリ、と音がした。

窓から顔を覗かせる満月から放たれる淡い月光を頼りに、楓が暗闇の中に目を凝らす。

いつの間にか、教室の後ろのほうに茶碗が転がっていた。

食器棚は半開きになっている。

昨日と全く同じだ。

すると、地面に転がる黒い茶碗がビデオの逆再生ボタンが押されたかの如く奇妙な軌跡を空中に描いて宙を舞い、食器棚に戻る。

ひとりでに食器棚の戸が閉まっていく。

そして、ああ、また繰り返しが始まった。

何度も何度も黒い茶碗が落ちては戻され、落ちては戻される。

そして、次第にその数も増えていく。

目が離せない。

思わず鳥肌の立つ腕をさすった。


気がつくと、教室の彼方まで調理台が永遠と並んでいた。

楓は自分の目を疑う。

昨日と違ってほんのわずかにでも視線を外しはしなかった。

なのに、その変貌の一部始終を捉えることは全く出来なかった。

文字通り、気がついたら調理台が増えていたのだ。


そして、昨日を寸分違わずなぞるように、水滴が垂れ始めた。

ピカピカに磨かれ月光を反射して輝くシンクに水滴が落下していく。

その音が一切のずれなく同時にすべての調理台から聞こえてくる。

ボワボワという音が反響し、強め合い、広がっていく。


最後に、つんと鼻にくるような悪臭が弱弱しい風に乗って届いてきた。

ガタンガタンとごみ箱が暴れる音がする。

そして、しばらくたち、あのコン………コン………という音が聞こえ始めた。

なるべくその音や匂いを気にしないように努力する。


しばらくして、制鞄を置いて勇気を出して調理台の下から這い出る。

木刀を両手に持ち、少しの間様子を伺った。

しかし、怪奇現象はこちらの存在などお構いなしに永遠に繰り返しを続けていた。

途切れることなく続く無限の反復。

それが今、この部屋を支配している。

少しずつ、楓の心がこの現象に慣れてくる。

異常を正常とみなし始める、そのことの是非は置いておいて、当初の目的を果たさなければならない。

つまり、この異常はいったいなんなのか、である。


そっと近くの調理台に近づいた。

もし、この繰り返しが途中で中断させられたら、いったいどうなってしまうのだろう?

素手で水滴に触れるのは躊躇われたので、楓は木刀の先をそっと蛇口の下に近づける。

金属製の蛇口キャップにたまった水が、大粒となって落下する。

そこに、間髪入れずに木刀を差し込んだ。


水滴が木刀の上に落ち、濡らして染みをつくる。

どうやらこの反復は邪魔できるようだ、そう楓が考える。

次の瞬間、そのはやとちりは完全に否定された。

ポタン………。

シンクに水滴が落ちる音がする。

耳を疑った。

隣の調理台の音と混同しているのではなかろうか。

しかし、傍のたらいで水滴を受けようが、脇に干されていた台拭きで蛇口を覆おうがその音は必ずする。

どう考えても水滴は落ちていないのに落ちた音がする。


やはり、これは異常だ。

あからさまに常識に相反する現象を前に、そう確信した。


それから楓は色々と試した。

蛇口キャップに付着した水分をタオルでくまなく拭き取ってみたり、自分の異能で結果を覆そうと試みたり、出来ることはなんでもした。

しかし、何ら成果は生まれない。

何をしようとも怪奇現象はおさまることがなく、必ず一定の間隔を正確に守って反復を繰り返していた。


教室の前の黒板にもたれかかり、楓が途方に暮れる。

何の手掛かりも得られない。

この教室では異常な事態が続いている、ただそれだけだ。

月はもう雲に隠れて見えない。

真っ暗な闇が家庭科室を覆っていた。

しかし、不思議と怖くはならない。

もはや出来の悪いB級ホラー映画のように感じられるこの家庭科室に楓は慣れてしまっていた。


調理台の下の制鞄からビニールのラップに包まれたサンドウィッチを取り出して頬張る。

空きっ腹には安物のチーズとハムが高級フレンチのように感じられた。

そうして食べ終わった後のラップを制鞄に放り込もうとした後、欠伸あくびを噛み殺す。

楓はたまらず丸椅子に座り込んで体を調理台の上に預ける。

いつもならとっくのとうに眠っている時間だ。

それに昨日は変な夢を見たせいかあまりよく眠れなかった。

瞼がゆっくりと閉じていく。

ガラリとした家庭科室の中で、異常現象の奏でる音楽に楓の寝息が混ざり込んだ。

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