第21話


 同じ昨夜のことである。

わたくしねがいは、ただネヒルテルと共に在ること。ずっとずっと共に在ること。だけどあの方は、妾の希いを聞いてはくださらない」

 皇后はながい睫毛を伏せた。左賢王は黙って皇后の話を聞いた。大可汗が閨に皇后を残して他の寵妃の幕舎へと去った後、皇后に呼び出されたのである。

「ならばせめて、わが君に万一のことが若しあらば、そのときは――そのときは、あの男を殺して」

 顔を上げた皇后は、若き左賢王の腕をって狂おしく愬えた。左賢王イェディ・ベルゲはおもわず皇后の顔を覗きこんだ、その顔からは血の気がいて、おそろしく蒼白になっていた。このときほどあによめのうつくしく見えたことはなかった。

「きっとアルトゥ・ウルを殺してくださいませ。憎きアルトゥ・ウルを殺してくださいませ。若しあの漢人がネヒルテルを亡い者にすれば、アルトゥ・ウルが次の可汗になってしまう。ネヒルテルに弓引いた男を可汗として上に戴く抔、わたくしにはできません。そのような世に、妾は生きていることができません。どうか約束してくださいませ、あの男を殺すと」

 皇后の語気が強くなるのと歩を揃えて、イェディ・ベルゲの腕を掴む力も強くなっていった。イェディ・ベルゲはその手を振り払うことができなかった。寧ろその手に、その手の持ち主に、うつくしく狂おしくいとも貴い人のつまに、自らの腕を献げたいとさえ思った。

 そのとき初めて、イェディ・ベルゲは自分が恋していると知った。知ったときには、前にも後にも進めなくなっていた。

 身をふるわせて、皇后の手を払いのけると、まっすぐ見おろしその顔をみつめた。皇后はきッと顔を上げ瞶めかえした。

 おそろしい瞬間だった。あとすこしで抱きしめずにはいられなかったが、激しく拒絶されることは判っていた。酷なほど十分解っていながら抱きしめたい想いはどうしようもなく湧いて、それを押さえこむためにイェディ・ベルゲの精神はいたく消耗した。

 ついに彼は、約することなく皇后の前を辞した。昨夜遅くのことだった。


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