第25話
先ず狙うのは、右手を遮る騎馬の武者。時間が止まっているかと顧恵雲には思える。水のようになめらかに近づき、不意を衝いて背を押す、斜めに、流れるように。男は落馬する、次は左の男だ――
――と見えたが顧恵雲の短刀が受けている。鈍く鳴る金属音、と同時に笞で武者の眼を叩く、武者は一瞬狼狽する。その一瞬だけ大可汗への道は開け、邪魔する者は誰もない。いまだ。
いまだ。この瞬間は二度とは来ない。なのに大可汗は此方を見ない。背後の騒ぎはまるで無いものの如く、全神経を前方のアルトゥ・ウルへと向けている。顧恵雲は心に叫ぶ。見よ、己を見よ、英邁
顧恵雲の短刀が大可汗を背中から刺し貫いたそのとき、大可汗の放つ視線の先では左賢王イェディ・ベルゲが、右賢王アルトゥ・ウルの喉を裂いていた。勢子どもに追いつめられた孤高の獅子が、それでも矜りに満ちて狩人を寄せつけぬように、右賢王は最後まで剣を振るいつづけた。その威名を畏れて、誰も敢えて止めを刺すこと能わなかったのを、実の弟なればこそ手を下したのだ。
皇太弟の死を目の当たりにした大可汗は戦慄のあまり、短刀が自らの胸を貫くのにはじめ気づかなかった。口からこぼれ落ちる血を見て初めて、大可汗は刺客の存在を思い出した。目は弟を追ったままだ。ふり返らずとも、誰の剣が自分を刺したかは判った。
右賢王アルトゥ・ウルは、今際の際に、憎み恐れ妬んだ仇敵が討たれるのを見た。大可汗の玲瓏な眸、漢土の刺客の凄愴な眸、両の眸が凍りついたように揃って自分に注がれるのを見た。
止まっていた時間が動きだす。顧恵雲は成功を確信する。今度こそ大可汗に死を与えた、次の瞬間には死が自らにも齎されるだろうがそれで可い。彼の刃は心臓に届いている。
右賢王アルトゥ・ウルは死んだ。その兄にして
先刻落馬させた男は起き上がろうとしている。笞で目を打った男は視力を回復したらしい。大可汗の前に立っていた親衛兵はふり向こうとしている。己は次の瞬間死ぬだろう。怖くはない。悔いることもない。達成感だけがある。
背中で風が鳴ったのが聞こえる。琴の弦が鳴ったのが聞こえる。なぜこの場に琴が鳴るのか解らない。張りつめた空気が揺れ、緩み、揺れが収まり、また張りつめる。空気の
ふたたび張りつめた空気を、狂った哄笑が破る。左賢王イェディ・ベルゲは目を
顧恵雲は自らの喉と胸を灼く痛みに気づいた。目を下ろす。ふたつ鏃が見える。鏃は血塗られている。血は粘っている。粘って垂れて、陽の光に透けている。その血は己のものだ。暗殺を成し遂げた刺客のものだ。
本懐を遂げた刺客は、だが雄叫びを上げることは能わない。
先刻から女の哄笑が聞こえている。物狂いの女の声だ。
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