第24話


 右賢王アルトゥ・ウルの鎧は返り血で赤黒くなっている。かぶとの鳳凰の羽根飾りまでが血に染まっている。右賢王は顧恵雲を見ない。見ないが彼が信じていることは判る。右賢王は信じているのだ。彼が切り拓いた混乱に乗じて、顧恵雲が大可汗ネヒルテル・ビルを討つことを。或いはたとい討ち損ねたとて、そこには新たな隙が生まれ、必ずやおのれが大可汗を討つと。二人呼応したならば、なんみちの開かざる。血の途、呪われた途、退くこと能わざる途。

 右賢王は合力を唱えた。顧恵雲はうけがわなかった。だがいま、斯うして右賢王は大可汗の陣へ斬りこんでいる。必ず顧恵雲が応じるものと信じて斬りこんでいる。その信に応えぬものは士ではないと思えた。のみならず、千載一遇の好機を活かさぬようでは武門の恥だとさえ思えた。顧恵雲の心臓は、その高鳴りの最高潮を迎える。

 いまを措いてはない。

 顧恵雲は懐中の短刀を握りしめる。固く固く握りしめる。視線は大可汗の背中から離さない。そしてゆっくりと、鞘から抜き、次いで懐から抜き出す。陽光が刀身にひかる。刀身は僅か三寸。


 顧恵雲は水の流れに乗るように、自然に、ごく自然に、人の浪に逆らわず人の河を渡り対岸の大可汗との距離を詰める。大可汗はふり返らない。その先では右賢王の激闘がつづくが顧恵雲はその帰趨を見ない。右賢王の左右の偉丈夫は既に討ち取られている。大可汗をまもる近習たちも右賢王を手にかけるのにはさすがに躊躇して、それが為にまだ右賢王アルトゥ・ウルの戦いはつづいている。異母弟の戦いを見守る大可汗の表情は此方からは窺えない。

 大可汗の周囲を固める者どもは右賢王に気をとられ、為に背後から近づく顧恵雲への注意を疎かにしている。彼らにとって本命は右賢王なのだ。大可汗の命を狙う者と云えば、三日前あらわれたばかりの漢土からの刺客などより、右賢王アルトゥ・ウルにこそ最も警戒を致すべきなのだ。

 顧恵雲の暗殺の功名は、ついには右賢王の悪業の名の下に隠れ、脇役に終わる運命を免れないのかも知れぬ。首を獲った者の名は百年を待たず滅び、逆賊アルトゥ・ウルの名のみが永久に記憶されるのかも知れぬ。

 大可汗は此方を見ない。顧恵雲の挙が右賢王とは無関係であると知る殆ど唯一の男。せめて大可汗にだけはおのれを見てほしい。世間が己の名を忘れようとも、大可汗を殺した男のいさおしを知らずとも、唯一人、大可汗ネヒルテル・ビルの記憶にだけは、容易ならざる大業を成し遂げた男として刻まれたい。

 人は妄執と嗤うかも知れぬ。疾うに世を棄てた男、世に忘れ去られた男の、それは見苦しい自矜心なのかも知れぬ。自身でもしかとは判らぬのだ、それでも――そうであっても己は唯一個の理解者を得たい。

 顧恵雲は渇仰する目で大可汗を見る。大可汗まではあと三歩の距離だ。

 大可汗と顧恵雲の間に、邪魔となる者が二人だけ在る。右の一人は気づかれる前に背中を押すことができる。押せば彼は落馬するだろう。だが左手を遮るもう一人には気づかれずに済ませられまい。

 ――余のほかの者を殺してはならぬ。刃を向けてもならぬ。

 その言は顧恵雲を縛っている。一度諾した以上は頑と解けぬ約として顧恵雲を堅くばくしている。許されるのは一太刀のみ。

 顧恵雲は覚悟を決める。大可汗も右賢王も己を信じた。同胞たる漢人からは得られなかった信を、蛮夷の兄弟は己に与えた。その信に己は応えよう。あらためて短刀を握る。短い短い刃。血の予感。あか。眩暈。

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