第23話


 天頂から陽が大地を灼いている。時は一刻また一刻と過ぎる。大可汗の周囲に近習たちの姿が絶えることはない。

 顧恵雲は先刻から、視線を大可汗に貼りつけたまま逃がすことがない。太陽と、無慈悲に過ぎる時とに責められ、顧恵雲の全身から汗が流れつづけている。流れる先から汗は草原の風に運び去られる。

 その間も大可汗は指示を四方へ飛ばしつづけている。次々と伝令がやってきては戦況を伝え、大可汗は指示を与え、頷いた伝令はまた去っていく。声は届くが契泰キタイの言葉は顧恵雲には通じない。

 やがて大可汗は陣幕へと戻るだろう。北方からの遣いに謁見し、西方へ書翰をしたため、部族間の争いに沙汰を下すのだろう。戦場にあっても大可汗に政事は追ってくる。大半は老臣たちに委ねてあるとは云え、勅裁を要する案件はあるのだ。それを見分ける嗅覚は、未だ官制の熟しきらぬ契泰に於いて、可汗に必須不可欠の能力と云えよう。

 陣幕の中へ入ってしまえば当面は出て来ない。終に機を逸し竟に暗殺は成らぬのか。いまも額のうえに泛び背中を辷り落ちる汗がすべて冷えきり、不甲斐ないと顧恵雲を責め苛む。

 馬蹄の地をつ轟きが聞こえてきたのはそのときだ。目を上げれば、騎馬が三頭、大可汗一行を指して駆けてくる。先頭を駆けるのは黒毛の駿馬、顧恵雲も見憶えがある、馬上の人も――それはの右賢王、将として南の大門を攻めている筈のアルトゥ・ウルだ。左右を固めるのはいずれ劣らぬ偉丈夫、アルトゥ・ウルを神とも崇める勇猛な双子の従者である。

 アルトゥ・ウルを前に、誰もが道を開いた。云うまでもなく彼は右賢王、即ち皇太弟であり軍事の大権をつかさどる大官であり、その権威権圧は大可汗に次ぐ。迂闊にその進路を塞ごうものなら、斬り棄てられても文句は云えぬ。一世の大逆が潰えてより七年、その非道の大望を右賢王が棄ててはおらぬと判ってい乍ら人々は、危険であり且つ尊貴である皇太弟への対処にまだ迷いがあるのだった。

 道を開けた者どもはだが、通り過ぎる右賢王の表情の尋常ならざるを見て、あっ、と短く叫んだ。

 真っ先に反応したのは近習グゼ・ブユクだ。向かってくる騎馬の将へ向け鋭く警する。

「御前なれば、右賢王ッ」

 右賢王と大可汗とを結ぶ線上に躍り出で、

「どうか下馬をッ」

 グゼ・ブユクの後に数人がつづいて、道を塞ぐ。右賢王の馬は勢いを緩める気配がない。

「下馬を」

「止まられよ」

「どうか、どうか」

 口々叫ぶ近習どもと、右賢王との間はもはや幾らも距たっていない。

 次の瞬間右賢王は、鞘から抜いた剣を斜めに薙ぐ。グゼ・ブユクの頸から鮮血が迸り、あたりを染める。

 顧恵雲の頭は混乱し、眼前の事態は夢としか思えず、その視線は右賢王と大可汗との間に定まらない。大可汗のふり返るのが目に入る。目が合う、大可汗の目はなにかを問うようだ。顧恵雲は声なく、目で「ちがう」と云った。ちがう、右賢王と謀ったのではない、己は約を破ってはいない。

 顧恵雲の声なき抗弁を、大可汗は容れた――容れたのだと顧恵雲は信じる。大可汗は直ぐに右賢王へと視線を戻す、その視線の先では三騎の武者が親衛兵を相手に暴れている。大可汗の眸はいまも冷徹だ。

「かけがえのない命などというものは、ない」

 大可汗が呟く。漢語で発せられた低い声は、混乱のなか誰に届くこともなく消える。黄砂が舞いあがり武者たちをつつむ。大可汗の胸中は竟に誰にも知られぬ運命である。


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