第26話 決着


 哄笑と聞こえたものは、じつは罵り声だった。笑うとも泣くともつかぬ、絶望の罵り声だった。振り絞られた罵声の意味は、契泰キタイの言葉であるゆえ顧恵雲が知ることはなかった。その声の主がだれであるかも。

 だが契泰の近習、老臣、親衛兵、親アルトゥ・ウルの者も大可汗ネヒルテル・ビルに絶対の忠誠ゆるぎなき者も、雑兵から奴婢たちまで、その場にいたすべての者は、女の言葉をしかと聞いた。愛にみだれ憎に躓いた皇后の言葉を聞いた。

「呪われた漢人は死ぬがいい。わたくしのネヒルテルを狙う者は皆、永遠の地獄を彷徨うがいい。見よ、あの情けない死態しにざまを。女に討たれたのだ。勇武を矜っておきながら、女に討たれたのだ」

 女の渇いた嗤い声が、草原に散った。顧恵雲は力をうしない、馬から落ちた。女の声はますます勝ち誇った。

「怯懦なるかな漢人。女に殺された刺客として、永遠にその名を辱められるがいい。貴様に栄誉抔はやらぬ。ネヒルテルは奪われようと、栄誉は掴ませぬ。死ぬがいい。恥辱にまみれて死ぬがいい。絶望して死ぬがいい」

 狂ったような笑いが途切れた。皇后は弓を抛り棄てた。脣は幽かに顫え、眸は大可汗にじっと注がれ、だが何も見ていないかのようにも思われ、群臣どもの叫び声さえ耳に入らないようにも思われ、その蒼白の貌は此の世のものでないほどに美しく、若しかしたら本当にこのとき彼女の魂は消え入ろうとしていたのかも知れなかった。放心しているように見えた皇后へ、大可汗の眸が向けられた。皇后の眸は光をとり戻した。その眸は死に逝く大可汗の視線と絡み合い、愛撫する如く狂おしくみつめ、次の瞬間、弾かれたように大可汗に駆け寄った。力うしなった夫の躯を抱きあげるとはらはらと涙を落とした。抱きあげた大可汗の骸を、涙はらした。

嗟吁ああわたくしのネヒルテル。妾の、永遠の、最愛の。ネヒルテル、ネヒルテル。いいえ、あなたは死んではなりません」

 大可汗の血は止まらず、皇后の若草色の裳を深紅に染めた。

「あなたは生きるのです。ネヒルテル、お願いですから生きて。どれほど妾があなたを必要としているか、あなたは知らないのです。だからお願い、死んでもいいなんてばかなこと考えないで、生きて、ずっと生きて、ネヒルテル、ネヒルテル、ネヒルテル、妾のネヒルテル、ああ、嗟、ネヒルテル……」



 洛陽を席捲し漢人の王朝を倒し草原の民をして中原の覇者為らしめるかがやかしき事業は、次代へと先送りされた。偉大な歴史をうちたてる筈だった大可汗は、その偉大なる矛となる筈だった異母弟の弑逆に遭った。大逆の異母弟もその場で討ちとられた。討ちとったのはまた別の異母弟である。彼は次の可汗に推戴され、そのはなむけとして献じられた甘州城は酸鼻を極める掠奪を受けた。

 新しい可汗の下、契泰は草原の王者であり続けたが、ついに再び漢土を脅かすほどの勢威を示すことなく、三代の後に滅びた。

 甘州城外に発した、可汗位を巡って骨肉相食んだあらそいは、契泰の血に塗れた勇猛を語るとき必ず引かれる伝説となった。

 漢土から来た刺客は女に殺されたと伝えられた。

 顧恵雲のために幸いだったのは、ひとつには女に殺された刺客の噂は京洛ではさして人びとの興味を惹かなかったこと。いまひとつは、弟のこと。

 丞相曹陳は約を忘れなかった。顧恵雲の弟に武将としての働き処を与え、擢に応え功挙げた弟は、まず順調な官途を歩みはじめた。顧一族の武門としての命脈は保たれたのである。

 だがそれさえも、死んだ顧恵雲には如何でもよい談かも知れぬ。顧恵雲の名は正史には残らなかった。彼の妹が誰に嫁したか、史書は伝えていない。



(了)


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辺境と城市をめぐる史書断簡 久里 琳 @KRN4

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