第14話


 その日が暮れた。

 顧恵雲は手足を縛られた姿で、大地に陽が沒むのを見ていた。月は何処に在るのか知れない。

 特使一行を見舞った凶運を、まだ顧恵雲は知らない。だが知ったとしてなにが変わろう。自身の命運が尽きたとだけは知っている。それだけ知れば十分である。

 あしおとが近づいてきた。跫は床に転がされた顧恵雲の頭のすぐ傍で止まった。顔を向けると、相手も上から下ろしている。顧恵雲には、自分でも説明できないふしぎな予感があった。予感が当たったと知って顧恵雲は瞑目した。星明りに照らし出されたのは大可汗だ。

「使者の一行は皆死んだ。生きているのはおまえだけだ」

 死んだとは言い草だ、汝が殺したのだろう。胸に皮肉は泛んだが、同僚たちの死を聞かされても感情は特段動かない。外交の使者にはままあることだ。して戦火の両岸を繋ぐ使者ならば。

「いまや交渉の任に当る者はおまえのみだ。はじめよう」

「待て、はじめるとは……なんのことだ」

 不覚おぼえず、顧恵雲は狼狽えた。大可汗がなにを言いだしたのか、解らなかったのも無理はない。特使は皆斬られた。いずれ成る見込みの薄い交渉だったにしても、斬首の直接の原因が顧恵雲のなした暗殺未遂にあったのは明らかである。当の顧恵雲がその交渉の続きを引き受けるとは、悪い冗談だ。

「おまえは余を殺したい。そうだな?」

 顧恵雲はゆっくり肯いた。まだ大可汗の言葉の裏を計りねている。

「殺せるならば、殺すがよい。おまえに自由を与えよう。この陣で、あらゆる行動の自由だ。余をまた狙うもよかろう。ただし条件がある。余よりほかの者は殺めてはならぬ。刃を向けてもならぬ。決して右賢王アルトゥ・ウルと関わってはならぬ。如何いかん

「これは……交渉なのか?」

「然り」

 交渉などではない、と顧恵雲は思った。直ぐ殺されるのが当然のところを、およそあり得ぬ好遇である。大可汗の真意は量り難い。

「ならば答えよう。汝を弑する機会が再び与えられるならば、如何いかなる条件であろうと己は飲む。アルトゥ・ウル抔知らぬから、関わることはあり得ぬ。不殺の約とて是非もないが――」

 如何な条件を課されようと飲むと云ったのに二言はないが、疑問は明らかにしておきたい。

「己に刃を向ける者が相手でも、己の身を守るためでも、剣を以て抵抗してはならぬのか?」

「そうだ。そのときは大人しく殺されよ」

「汝を殺すために、邪魔する者を排除するのもならぬか?」

 重ねて生真面目に顧恵雲が問うのを、大可汗は一瞬呆れて見たが、すぐに言い切った。

「ならぬ。だが如何どうしても排除せずには余の命を奪えぬとしたならば、致し方ない。ひと太刀だけは許すとしよう。けしてたがうな。一太刀だ」

「一太刀だな」

 顧恵雲は諾した。諾したからにはけして約を破らぬと心に誓った。とりこの答えを聞くと、大可汗は踵を返して去った。顧恵雲の約を信じ疑いを容れぬ、迷いない跫だった。遠ざかる跫が竟に聞こえなくなると、陣幕に独り残された顧恵雲は、満天の星を見あげて、すべて夢だったのかと疑った。星が流れ、風が砂塵を巻き上げた。遠くに酒盛りする兵たちの歌声が聞こえた。夢か現かは間もなく判る。目を瞑ったとき、こちらへ近づく、大可汗とは別の跫が聞こえた。


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