第15話


 その夜のうちに顧恵雲は元の幕舎へと戻された。手足の縛めは解かれ、近習の生命を奪った短刀は返され、幕の前に見張りは立ったが、温かい食事が供されるなど、まるで暗殺未遂などなかったかのような扱いだ。

 諸将へは、顧恵雲を客人として遇する、と伝えられた。むろん、どよめきが起こった。商からの特使に紛れていた刺客が大可汗の命を狙ったことは、既に皆の知る処となっている。近習のカルン・クルチが殺されたのだ、隠せることではない。

 当然生かしてはおけぬ。しかも最も苛烈な方法で殺されなければならぬ。そうあるはずの処が如何なる処分も無用と宣せられ、手出しを禁じられたのだ。

 陣内の動揺は当然だろう。だが同時に、重臣将軍近習から雑兵小者に至るまで、何処か胸の奥で納得する心もあったのだ。

然迄さまでに大可汗は天の加護を享けていると云うこと。刺客がかたわらに在ろうとその天命の長久たるに翳りはない。右賢王殿下の殺意でさえ、大可汗にあっては脅威になり得ないのだ」

 そう言ったのは右都将軍アイグ・イリヒだ。


 またの機会を与えられたのは願うべくもない僥倖だとは云え、およそあり得ぬほどの厚遇に、顧恵雲は困惑してもいた。暗殺を仕損じたのはまだしも許されよう。だが、仕損じてなお生命をながらえるのは、しかも客人扱いされると云うのは、危険だった。京に残る家族の生命と、一身ばかりか一族の名誉までも危険に晒すことを意味した。

 一刻も早く殺さねばならぬ。若しそれが叶わぬならばせめて、自身は早く殺されねばならぬ。惨たらしい最期を迎えて、その最期を京洛まで轟かせ、帝や丞相や官吏たちにしかと聞かせなくてはならぬ。誤って、顧恵雲は契泰キタイに寝返った抔という噂が彼らの耳に入る前に。

 顧恵雲の焦りを知ってか知らずか、大可汗の警護は格段に厳しくなった。大可汗自身は以前と変わらず、自らの安寧を一顧だにしない。だが周囲が彼を放ってはおかなかった。可汗位の代替わりは殆ど自らの死を意味するに等しい老臣たち、一昨日の失態を二度と繰り返すまいと誓い合う近習たち、それに総ての契泰の将兵たちにとっても大可汗は、命を懸けて守るに値する英主であったのだ。


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