第16話


 ここにまた一人、大可汗の生命を投げ捨てるような振る舞いに眉を顰める者がいた。皇后、即ち大可汗ネヒルテル・ビルの第一夫人である。ふたりは従兄妹の間柄でもあった。

「ネヒルテルのいない人生は考えられません」

 幕舎奥の長椅子に端然と坐し、皇后は言った。朝議の前のことである。

 それは、大可汗の夫がある間は彼女の権勢も煌びやかであるからだろう、と左賢王は内心思った。

 大可汗と右賢王の間を取り持つことのできる数少ない王族の若武者として、左賢王は王室内で重宝されていた。皇太后、即ち右賢王アルトゥ・ウルの実母からの信頼も厚い。近ごろとみに大可汗への当たりが冷たくなった皇后の、麗しからぬ機嫌を伺わせるため大可汗が遣いに派すのも、やはり左賢王イェディ・ベルゲなのだった。

わたくしはネヒルテルを愛しています。それはもう、生まれたときから。彼が可汗になるずっと以前から」

 威厳を崩さぬ表情で、だが声が微かに顫えている。

 他人に心の裡を明かさぬ石のように冷たく固い女だと、このときまで思っていた左賢王は、意外の感に打たれた。本心であるかどうかは判らない。だが仮令たとえ嘘であろうとも、そもそもこのような話題を持ち出す女ではなかったことを思えば、なにか尋常でない心の動きが彼女の胸中に湧いているのだろう。左賢王はつづく言葉を待った。

「わが君を害しようという者は、許しません。アルトゥ・ウルも、漢土の刺客も。そのような者たちを側近くに置いて平気なわが君も。黙って従うあなたたちもどうかしている。自分たちの王が殺されるのをむざむざ待つというのですか? だれひとり、其奴の首を刎ねようという士はおらぬのですか?」

 皇后の脣と、鼻梁までが悸慄わなないている。

「我らにとり大可汗の言葉は、神命にも等しいのです。敢えて逆らえる者はいません――いるとすれば兄、右賢王アルトゥ・ウルぐらいのもの」

「その名は聞きとうありませぬ。わが君が、ネヒルテルがどう云おうともわたくしは奴らを許さぬ。奴らがネヒルテルに指一本触れるのも許さぬ。イェディ・ベルゲよ、どうか其奴を殺してくださいませ。どうかどうか殺してくださいませ。それが叶わぬならせめて、ネヒルテルに云って刺客を遠ざけさせてくださいませ」

 いつしか皇后は椅子から立って、左賢王イェディ・ベルゲの傍までにじり寄り、その袖を掴んでいた。その懇願があまりに真剣な眼差しでなされるため左賢王もおもわず、うなずかざるを得なかった。

 辞去する際、面倒な頼みを引き受けてしまったとイェディ・ベルゲは天を仰いだ。


 むろん、大可汗の夫人と弟との間にこのような会話がなされたとは、顧恵雲には知り得ない。

 短刀を懐に、朝議の場の裏で大可汗の左右が隙を見せる瞬間を窺う。

「なんだ、ここに居たか」

 後ろからかかった声にあわてて振り向くと、そこにほかならぬ大可汗がいた。

「あれは影武者だ。余以外の者は殺すなと、約束を忘れてはおるまいな」

 ならば紛らわしいことをするなと、影武者を二度も斬るなどおれも御免だと、そう罵りそうになるところを、ぐっと飲みこんだ。

 だがあの夜、あやまって殺したのは影武者ではない。剛勇を以て鳴る、騎乗の腕も自慢の近習カルン・クルチだった。

 その話を聞かせたのは、やはり近習のひとりであるグゼ・ブユクだった。昨夜のことだ。憎しみが溢れんばかりの胸中を面にあらわしグゼ・ブユクは言った。

「大可汗の禁さえなくば、いま直ぐにもおまえを縊り殺してやるものを」

 そも、なぜ大可汗は己を生かしておくのか。

 顧恵雲の疑問にグゼ・ブユクは苦々しげに、吐きすてた。

「カルン・クルチの武名を永遠たらしむ為だ。奴はおれたちの誇りだった。大可汗もその武を愛しておられた。大可汗を守るため、奴が命をなげうたねばならなかったのならば、刺客はそれに相応しい剛の者でなければならぬ。おまえには、それを証す義務がある」

 言い終え背を向けたグゼ・ブユクを顧恵雲は身動みじろぎせず見送り、ため息を吐いた。ため息は白くなって消えた。秋が近い。


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