第17話 愛憎


 皇太后はまったく異なる見解をもっている。

 右賢王アルトゥ・ウルの実母にして、左賢王イェディ・ベルゲの継母でもある。さらに云えばいまの大可汗の幼年、ネヒルテル・ビルの母代わりとなり慈しんだ女人である。

「あの子はアルトゥが皆の赦しを得るためにこそ、刺客をゆるしたのです」

 皇太后の話を聞いたのは、左賢王イェディ・ベルゲだ。いつもより多めに馬乳酒を聞し召して饒舌になる皇太后のすぐ側に控え、直立して聞いた。

「皆が認めることでしょう――敵国の刺客でさえ免すのならば、なんぞ肉親を免さざる、と。あの子は黙しようとも、なによりその決定が雄弁に語るでしょう――アルトゥを右賢王に戻したのも、その勇武を可惜あたらしと思えばこそだと。そしてまた、アルトゥにも知らしめるのです、ネヒルテルはけしてアルトゥを侮っているのではないと。むしろその剛毅を認めるからこそ、大罪人にも拘わらず重用するのだと。それを気づかせるために、剛毅の刺客を側に置くことにしたのです。自らの命を危険に晒して。ネヒルテルはむかしから、そういう子でしたよ」

 皇太后の甘い感傷を、酒は倍加させるようだった。イェディ・ベルゲは継母の顔をぬすみ見た。

 かつて父王の寵愛を受けた容色には衰えが隠せないものの、代わりに気品が加わって、まぎれもなく女人最上の位にあると、見る者すべてに知らしめる顔だ。

「ネヒルテルが望むのであれば、したいようにさせてやりなさい。でもいいですね、の刺客にあの子を討たせてはなりませんよ。けしてけして、そのようなことのないように」

 おだやかに言う皇太后は、微笑んでいるようにも見えた。イェディ・ベルゲはふと、彼女はほんとうは大可汗の死を望んでいるのではないかと疑った。大可汗が死ねば、彼女の実の息子が可汗位をぐのだ。自分を実の母のように慕い、恩愛に孝で応える大可汗さえ死ねば。

 だがイェディ・ベルゲは頭を振って、芽生えた考えを追い払った。

 ともかく、皇太后から大可汗に説いて刺客を処分させようとの目論見は、敢えなく潰えた。


 皇太后の許を辞してすぐ、大可汗を先頭に騎乗で進む一行のなかに顧恵雲の姿を認めて、左賢王は目も眩む思いがした。

 大可汗の命で、顧恵雲は懐中に短刀を帯びることを許されている。長剣こそ持たないものの、若し僅かなりとも隙あろうものなら、奴は大可汗の首に白刃を突きたてるだろう。それだけの手練れであるとは、過日の襲撃で証されている。それを、大可汗まで馬一頭ほどの距離を隔てただけで、いつでも躍りかかれるほど側に寄ることを許すとは。

 否、近習どもを責めるのは酷だ。きっと大可汗自身の命で、顧恵雲の同行を許しているのだろう。おかげで彼らは皆一様に張りつめた弓弦のような緊張を全身に纏って、寧ろ気の毒なほどだ。

 緊張と云えば、顧恵雲の顔色も近習どもに劣らず蒼白になっている。

 疑いようもない。奴は殺す機を窺っているのだ。左賢王の目に、それは確かだった。

 いまも奴の心中ではいつ殺そうか、殺して殺されようか、いや殺す好機は竟に手からこぼれて本懐を遂げることなく無駄に死ぬのか、胸中には焦熱と迷罔とが渦巻いて、その重圧に息も絶え絶えになっているのだ。

 皇太后は好きにさせよと云ったが、それを唯々と承けるのはやはりあやうい。若しや大可汗の不興を買おうとも、偉大なる兄の叱責を受けようとも、この愚行を止められる者はこの世に自分しかいないのではなかろうか。いかにも、これは愚行だ。自分を殺すと公言する敵を斬罪に処すどころか身近にさしまねく大可汗も愚かなら、敢えて止めることをなし得ぬ近習どもも愚かだ。

 独り我のみが明晰に、この愚行を止め得る。


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