第20話


 明けて早朝。

 目覚めるとともに顧恵雲は幕舎の外へ出た。ちょうど地平線に顔を出した陽の光が、甘州城の鐘楼を照らした。今日だ。今日、おれは死ぬ。

 真横からの朝陽を受け、歩くうち大可汗の陣幕に辿り着いた。中を見れば、殆どすべての将があつまっている。鼻息の荒いなかにも晴れ晴れした表情の者どもは、今日にも城の陥落を予期しているのだろう。

 とりわけ右賢王の意気軒高たること、常にも倍する大音声で呵々大笑しては、居並ぶ諸将を奮い立たせている。この青年には、慥かに戦場の空気を変えるだけの威風があった。それでいて、大可汗である兄を弑する希みを捨てず、剰えその意図を秘そうともしないのだ。

 そのような弟を兄は咎めず、至尊の生命を的にさせて平然としている。偉大なる大可汗と皇太弟との、命を互いに業火の中へ抛りこむような関係を、近習も老臣もめることができないでただ祈るのみである。

 妙な兄弟だと顧恵雲は思った。おかしな大可汗に、おかしな諸臣百官どもだ。

 その理解を絶する大可汗が、顧恵雲に気づくと顔をこちらへ向けたままじっと見てくる。なんだと思って凝視し返すと、首をついと動かした。来いと云うのだろう。


「右賢王には近づくな、と命じたはずだ」

 側に寄ると、大可汗は感情を削ぎ落した低声こごえで言った。

「己の所為ではない」

 顧恵雲は敢然と答えた。自身が不誠実と目されることには我慢ならない。

「約を忘れてはおらぬ。昨日は不可抗力だ。己の意思に拘わらず右賢王が無理に己を連れていったのだ。我から敢えて近づくつもりはないが、彼から強いるものを撥ね返す力を己はたぬ。ほかならぬ汝が禁じたのだ」

 大可汗の胸中にあるものが、顧恵雲にもうっすら見えてきている。大可汗は、自らの暗殺が再度決行されるとき、その責が右賢王にまで及ぶことを憂慮しているのである。


「今ならよいぞ」

 今なら自分を襲ってよいと、大可汗はまったく感情の読めない表情で言う。

 右賢王は既に去った――南の城門を攻める部隊を指揮すべく。今ならば、大可汗を襲う者は顧恵雲一人であって右賢王は与り知らぬことと、言い切ることができる。

 だが何故に。何故に大可汗は、斯様に軽々と命を棄ててかかれるのか。自分を憎む弟のために事を謀れるのか。

 その問いは、多くの臣たちの共有するところであり、誰より皇后の強く想うところだった。

「あなたはわたくしのことなど忘れたのでしょうね」

 皇后のためにと設えられた、ひときわ大きな幕舎の奥の閨で彼女は夫を責めた。昨夕のことである。妻の問詰を大可汗は平然と受けた。

「あなたは妾を見もしない。あなたはついに冷たいままですね」

 そう云う皇后の声は感情を押し殺して玲瓏としている。大可汗は否定も肯定もせずただ、妻の愬えを聞いた。

「あなたの心は妾ではなく、あの女にあるのです。だから死のうとするのです。あの女のために」

 とは、大可汗の継母にしてアルトゥ・ウルの実母である皇太后のことだ。

「あの女は笑うでしょうね、手をって笑うでしょう。あなたが死ねば、我が子が晴れて可汗位に即くのですから。それであなたが本望と云うのならば――どうぞお好きになさいませ。どこぞの漢人に殺されなさいませ」

 皇后の眸にはげしい憎しみが泛んだ。

 アルトゥ・ウルが大可汗を殺したならば彼自身も死罪は免れ難い。ところが漢人が殺したのであれば、右賢王に咎はない。咎なければ皇太弟は次代の可汗である。

「あなたの皇子たちも、暴虐の弟君に殺されるでしょう。あなたの妻も寵姫も、暴君の貪り喰らう処となるでしょう。あなたはさぞご満足でしょうね」

 皇后の舌鋒は毒を含んで鋭い。大可汗ネヒルテル・ビルの心を深く窺うことにかけても、皇后の直感は最も鋭いのかもしれなかった。女の嫉妬が時にその眼を曇らすことがあったにしても。


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