第4話 密命


 驃騎将軍は北辺の城に見殺しと決せられてより半月、丞相曹陳は右京にある見窶らしい邸を訪ねていた。既に夕刻である。

 出迎えたのは、長身痩躯の青年だ。客を丞相だと認めると、青年は一瞬愕いた表情を見せたが、すぐに脣を真一文字に結びなおし無言のまま内へと迎え入れた。

「父君は」

「もう寐ておりましょう」

 青年は言葉をおしむ。丞相は当然と呑みこんで随う。

 廊下が尽きた。最奥の室へと丞相は案内された。明りの乏しい室では青年も丞相も影が定かならず、表情を窺うには窓外から射す残照が頼りだ。

「痩せたな」

 慣れると薄明りでも十分に用は足りる。

「最後に遇ったのは三年も前だったか」

 青年は首をすこし曲げて答えの代わりにした。盛夏の夕、都には風ひとつ吹かない。

「おまえの兄は、残念だった」

 ふいと室の空気がそよいだ気がしたのは、青年の体がぴくりと動いたせいかも知れない。

 青年の父が臥せっているのは、年齢のためもあろうが、なにより声望高く自慢だった息子を亡くして以来、気力を沮喪してしまったのが大きい。

 三年前、今と同じ契泰キタイが北辺を侵し、兄は征伐のため編成された商軍の副将に抜擢されたのだった。推挙したのは曹陳である。

 軍は敗れた。北方の辺境で、完膚なきまでの大敗を喫した。秋の初めのことで、沙漠のうえを奔る風は、まだ随分暑気を含んでいた。


 今夕、都に風はない。青年の額を汗が流れた。

 青年は名を顧恵雲と云う。その兄の名は、顧堅機と云った。

 戦に敗れた顧堅機は死んだが、戦場で熱沙に屍を晒したのではない。殿軍を指揮して、追い迫る敵兵に立ちむかいつつ、生き残った兵たちとともに苦難の千里を歩み、早々に撤退した他の将軍たちより十日遅れで都へ着いた。その十日の遅れは、顧堅機の運命を暗転させるに十分だった。

 先に景帝へ復命した将軍たちは、罰を免れるため、敗戦の責をすべて顧堅機に負わせていたのだ。兄は弁明の機会すら与えられず、景帝から死を賜った。


「戦に勝敗はつきものだ。敗れたからと云って、将に責を負わせるのは間違っている」

 丞相の言葉に、顧恵雲は答えなかった。驃騎将軍劉子洽シコウが敗れたと、噂には聞いていた。

「間違いを繰り返せば優れた将は失われ、戦場を知らぬ官吏のみが栄える」

 顧恵雲は横を向いたままだ。兄は死んだ。死そのものを恨みはしない。兵の道を歩むなら、いずれ死はついてまわるのだ。問題は、いかに死ぬかだ。

 彼の一門は兵家として知られていた。権門と云うほどではなくとも、兵を業として家族と所領を養うに足るだけの名声はあった。その名声が一朝にして地に墜ちたのだ。漸う頭角を現わそうとしていた顧恵雲に、華やかな活躍の場は遠くなった。

「我が朝の衰兆は隠すべくもない。にも拘らず、詰まらぬ政争の揚げ足取りに励んで外敵の跳梁を放置している――いや」丞相は長髯に手をあてた。「うであるからこそ衰退するのだろうな」

 顧恵雲は顎に手を当てるのみで声を発しない。丞相は続けた。

「軍は出ぬ。和議の遣いも出さぬ。帝は、独り驃騎将軍の残兵のみで契泰を追いかえせと仰せだ。云うは易いが」丞相は窓外へ目を向けた。目は向けたが庭の佇まいを観るでもない。

「それが如何に現実味のないことか。ここで国を挙げ押し返さねば、次は京洛が蹂躙されるかも知れぬというのに。保身にのみ汲々とする廷臣どもは、我が朝存亡のときに至ってなお目を瞑って惰眠の中にいるのだ」

 滅びない王朝はない、と顧恵雲は思った。不敬と云うなら云うが可い。


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