第5話


 遠く厨で、鍋のふたつこすれて当たる音がした。下女が夕餉の支度を始めたのだろう。それを合図に、邸じゅう息を潜めていたあらゆる事物が、一斉に呼吸をとり戻して動きはじめた。

 隣室からも、何者かの肺腑に溜めていた緊張が、ひといきに吐き出されるのが洩れ聞こえた。

 弟の吐息だろうと推して顧恵雲は壁に目を遣った。まだ幼さが残るが、若輩者なりに気のつく弟ではある。時ならぬ貴客に不審を懐いて、若しや不測の事あらばと隣室に隠侍していたのだろう。弟は今年、十五になった。

 人の気配に、曹陳は物問う目を向けた。顧恵雲は首を振り、案ずることはないと目で示した。弟も、他言していことと不可いけないことの分別はつく。


 だが丞相曹陳は、って人払いを求めた。

 顧恵雲は応じた。丞相の権威に屈したのではない。丞相ほどの人物が密議したいと云うのだ、どれほどの大事を告げる積りかひとつ聞いてやろう――という好奇心、加えてある種の予感である。覚えず躯の芯が熱くなっていくのが自分でわかる。

「援兵が派されぬ以上、早晩甘州城は陥ちよう。驃騎将軍劉子洽の命も無くなろう。北辺の地は蹂躙され、勢いづいた蕃賊は我が都にさえ迫るかも知れぬ。いま朝議に列なる廷臣の誰ひとり、それを押しとどめ得るほどの将にはなり得まい」

 云うに及ばず、と顧恵雲は皮肉に口の端を歪めた。登位以来、度重なる外寇にも一度として親征したことのない皇帝、阿諛追従と政敵を蹴落とす技にのみ長け弓馬の藝などついぞ磨いたことのない廷臣ども、奴輩やつばらに十万の兵の指揮を執れよう筈もない。して、重責を担って契泰キタイの大軍勢に対するだけの肚の据わった士など――或いは、兵家に育った己ならば可能かも知れぬが。

 だがつぎの瞬間丞相は、顧恵雲の思いもよらぬ言葉を吐いた。

「もはや、正攻法で契泰に勝つ道は殆ど絶たれたと云ってよい。ならば――」

 残っていた夏の陽も、最後の光が甍の陰に隠れ、濃藍の空に星が光った。夕餉の出来上がる音と匂いが客のいる室まで届いた。それはじつに滋味に満ちた匂いなのだったが、ふたりの注意を惹きはしなかったようだ。

 丞相曹陳が膝をにじり寄せた。

「暗殺が最後の手段だ」

 声を一段低くした丞相の眸が、昏い光を帯びた。顧恵雲の眸を捉えると、真っ直ぐ見据えて言った。「契泰の可汗を殺す。その大役を、おまえに任せたい」


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