第6話


 顧恵雲は市中を巡る間も考えている。日没後の街歩きが役人に見咎められようとも構わない。忍辱の日々が、夕刻の洛陽を逍遥する癖を彼に植え育んだ。

 昨夕、丞相は彼に死ねと云った。否、死という言葉自体は片鱗も出なかった。だが、敵中深く入り、精鋭たちのまもりの最奥にいます可汗の首級を挙げろと云うのは、死ねと命ずるも同然だ。

「事成らば、一族の光輝は再復しよう。弟君に開ける未来は明るい」

 その未来に、顧恵雲自身が重用される図案はないらしい。そして――

 事が成らずとも心配するな、と丞相は言った。残された弟のことは、神かけて儂が請け合う。必ずや、将として身が立つよう取り計らおう。汝が挙は救国の壮挙として長く語り継がれるであろう。それは即ち、顧一族の栄誉となって永遠に輝き、一族の繁栄の道を照らすに違いない。


 家名の再復か。

 口のなかで呟き、顔を上げた途端目に入ってきた邸に、見憶えがあると気づいた。と云って、邸の主人とは互いに顔を見知る程度で、招かれるほどの仲ではない。因縁があるのは、先年ここの惣領息子に嫁した女の方だ。

 彼女は、顧恵雲の妻になる筈の女だった。許婚者の仲であったのは一年足らずの間に過ぎない。兄が北方の征伐行へと出る前に婚約は成り、兄が誅されて間もなく破れた。

 当人の意思とはかかわりないところで成り、破れた約である。元は家同士の結びつきのため両家の親が決めたものが、顧家の姻戚に連なることを忌んだ先方の意により反故となった。

 愛しいと思う間もなく反故となった婚約なので、ただそうかと思うだけで、惜しいとも感じなかった。

 その女とは幼いころに会っている。顧恵雲が十歳になるやならずやのときで、頼りない手を引いてやったことをうっすら憶えている。その歳頃の五歳いつつの差ははるかな懸隔で、むろん恋の相手として眼中に入ることもなかった。

 ずっと忘れていたぐらいだったが、いまになってひとつ思いだした。婚約が成って直ぐのことだ。相手の家へ挨拶に上った際、女はひと言、

「うれしゅうございます」と言った。

 定型の文句であって、特段の意味はない。ない筈だ。それをいまさら思いだすとは、どこかに未練があったと云うのか――顧恵雲は冷笑した。

 女の真意は知り得ない。もしや女が未練を残しているかも知れぬ、と想像するのは都合のよい妄想だろう。そうだとしても、終に交わることなくすれ違った運命には哀れが伴う。


 婚姻との連想から、また別の女が顧恵雲の思惟のいとにたぐり寄せられた。彼の妹である。十七になる妹に、まだ縁談は来ない。主たる理由はむろん兄の勅勘に端を発する一家の凋落だ。

 くわえて、妹は眼に宿病があった。まったく見えない訳ではないが、きわめて視力が弱く、家事をするにも視覚よりは触覚聴覚頼りに勘頼りというさまだ。裁縫の如き精緻入念を要求される家事は諦めざるを得なかった。

 これで若し適齢期を過ぎてしまえば、好ましい嫁ぎ先を見つけるなど、ますます困難になるとは目に見えている。だが身内の欲目かも知れぬが、妹の心ばえの美しさは眼の不自由を埋め合わせるに十分であるし、あれで器量もわるくはない。幸福な結婚を要求するに、なんら臆すべき点はなかった。むろん、一家の名誉さえ回復されたならば、である。

 その二歳ふたつ下の弟も、俊才の誉れが高い。加冠まではまだ間があるとは云え、弓馬の道を家藝とする顧家の男子として、そろそろ実戦の機会を持たせてやってもよい頃だろう。能うならば、名を上げるに相応しい初陣を用意してやりたい。そのためにも、丞相の後ろ盾を得られるのは願ってもない談であった。



※ 当時、女性は十六、七歳で結婚するのが一般的だった。


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