第7話


 丞相の引き立てあれば、必ず弟の将来は明るい。そのためこの命を捨てろと云うのか。

 命を捨てる覚悟ならばうにできていた。それは丞相のためでも国のためでも、劉将軍のためでもない。顧恵雲に、もとより祖国愛などというものは残っていなかった。それほどに、一家に対する仕打ちは苛辣を極めた。

 弓馬の術を以て帝に仕うべく訓育を受けてきた身ではある。都の西方に封じられた所領を養い、帝室のまがきとなることをこそ本懐と心得、その家訓に殉じた兄と彼とで想いの深さに違いはない。

 だが忠勤一倒であった兄が勅を得て死を賜ったとき、その磨きぬかれた信念に一点の瑕が入った。

 以来三年、都人たちの一家を見る目は変わり、扱いも裏を返した。忠君愛国の璧琅を曇らせた瑕瑾は、月を過ぎ年をて、亀裂が育ち終には見る影もない骸となった。


 祖国愛の代わりにいま彼の胸に燃えるのは、世間をどうにか懲らしめてやる、一家への仕打ちを悔いさせてやらねば済まさぬ、という昏い情念だ。もはや立身出世抔という甘い夢は見ない。そこへ丞相曹陳は死ねという。死んで不朽の大功を樹てよという。よかろう。死んでやる。敵の大可汗をみごと斬って、最後はなますのように切り刻まれて、死んでやる。

 汝が一命を擲ち挙を遂げれば、一族の光輝は再復されるだろう。丞相の言葉が脳裏に蘇る。光輝だと。そんなものは犬にでもくらわせておくがい。ただ妹に良き伴侶、弟には輝かしき官途、それさえあれば可い。

 月が隠れた。雲が迅い。

 顧恵雲の夜の散歩は、その日を最後に絶えた。


 顧恵雲が都を発つ迄にその半月を要した。彼が準備に手間取ったのではない。同行する筈の特使の手配が整うのに半月が費やされたのだ。

 現実に目を向けず、和議など思いもよらぬと息巻く帝と、その意を酌むことにのみ長けた陸湛慶一派とを説得して、契泰キタイへ特使を派すると決めるには、丞相たる曹陳にして猶、老骨の悍馬を御すが如き難事だったのである。

 顧恵雲は護衛隊の長として、曹陳の推挙で特使一行に加わった。暗殺の計について特使はなにも聞かされていない。

「特使が和議を結んだならば、それもよし」そのときは暗殺は中止だと丞相は言った。顧恵雲の耳に口を寄せ、この企てを知るのは我と汝のみと、低く鋭く注意した。

 二重三重に謀をめぐらせるのが大臣の本分だ、どうせおれ仕挫しくじったところで次の手も用意してあるのにちがいない。臍をまげることもなく顧恵雲は頭の隅で思った。まあ、よい。彼には丞相としての責任があるのだろう。己はおのれの為すべきことを為す。


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