第8話 敵陣


 盛夏は過ぎたがすなを灼く太陽はまだ余力を十分に残している。

 遊牧の民が暮らす世界は豊かでかつ厳しい。いまは苛烈な太陽が、一月後にはみるみる力を失い、代わりに吹き荒ぶ寒風が地上を席捲する。草原を覆うあざやかな緑は次第に色褪せ、それもやがて雪の下に隠れ、長い冬を羊たちと共にやり過ごさなければならない。

 南の土地を掠め、豊かな城市から富と食とを奪うのは、生きるため必要な年中行事だった。草原の諸部族をまとめてその南下行を可能とする者を彼らは求め、応えられる英傑あらば進んでその膝下に身を投じ、神にもひとしい大可汗と推戴するのだ。

 なればこそ、大可汗は戦を起こさなければならなかった。契泰キタイうからだけが際立って好戦的なのではない。草原の民はすべからく戦中に生まれ馬上に死し、尚武の気風は春に秋に雨露の如く自然と彼らの生活に沁み透っている。


 武が身上の契泰の攻囲に、甘州の城は長くこたえていた。

 大可汗は焦らず攻囲をつづけている。老臣たちの制止を気にも留めず、大可汗は馬で城壁を一周し、堅く鎖された四方の城門の攻略が進む具合を確かめるのを日課にしている。その日巡視を途中で切りあげ帰ってきたのは、うしろから追ってきた伝令が、商の使者の来訪をらせたからだ。

 使者は商国の帝からの特使なのだと云う。

「和議を求めるのでしょうか」

 大可汗の帰還を出迎えた左賢王が轡をとった。下馬した大可汗は馬を任せて歩きだした。

「だとすれば、遅い」

 甘州城が囲まれて二月経った。日に日に城内からの反撃は弱くなっている。城が陥ちるのも遠くはあるまい。いまにも転がりこんでくるだろう熟柿をまえにして、如何なる交換条件を差し出せば足りると思うか。大可汗の頭のなかでは既に、陥落した甘州城の周囲で冬営し、翌春が明ければ周辺の小城や邑を火の如く掠奪して廻る計画ができあがっている。

「機を見るに敏であることは、一軍を将する者にも一国を宰する者にも通じて不可欠の資質だ。漢人たちの戴く帝は暗愚であるらしい」

 一歩うしろを歩きながら左賢王は曖昧に頷いた。

 左賢王イェディ・ベルゲは右賢王アルトゥ・ウルより五歳いつつ下の弟だ。二人の兄の、いずれとも母を異にする。仲兄とちがって大可汗には忠順だ。かと云って右賢王と仲がわるいわけでもない。むろん、肚の底が何うであるか迄は誰にも知れぬ。

「暗君を廃さないのだとすれば、臣たちも愚昧とせざるを得ませんね。文化文明の精華と自ら矜っていても、商に才人は足らずと見えます」

 それは置かれた環境の違いもあずかっているのだろう。興亡めまぐるしい草原の民は、戴く王が有能でなければ、共同体はすぐにも亡ぶ。故に無能の王は廃される。無能を理由に王位を容易に廃せるならば、内訌の恰好の原因ともなり安定した国家運営には害もあろうが、常に戦のなかに生きる草原の民にとっては内憂よりも、外患の方が断固優先さるべき懸案なのだ。

 土地に根を生やした漢人の国では事情は異なる。幼少期に人質として商の都に暮らした大可汗はその事情も想像できるが、なにも言わず客人の待つ陣幕を目指した。

 攻城の陣の中心に設えられた天幕の前で、控えていた左都将軍オノン・バルが、使者と重臣たちは既に着座している旨を告げた。


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