第3話


 甘州城に籠った驃騎将軍は未だ都の決定を知らず、城壁の外を囲む契泰キタイの軍勢と対峙している。季節は既に盛夏である。

 南の大門の正面、三里ほどの距離にひときわ大きな陣幕が望める。毎日その陣幕を発して大門のすぐ前まで馬を走らせる将の姿があった。

 その男こそ契泰の長たる大可汗カガンかと、はじめ城内の者共は息を呑んだが、よく調べさせるとこれは王弟であり右賢王であるアルトゥ・ウルだと知れた。右賢王とは契泰の軍制では可汗に次ぐ指揮権を有し、可汗に万一あれば代わって軍を率するならいとなっている。則ち皇太弟であって、王族にのみ就くことを許された官である。

 右賢王アルトゥ・ウルが異母兄である大可汗を敵視しているとは、一族重臣皆の知る処であった。

 契泰に於いて、可汗位は兄弟に順にがれていくのが法である。兄の死を待っておればいずれ可汗の王冠が転がり込んでくるはずだったのに、獅子の心を宿すと謳われた猛き王弟は、寸日として兄可汗の下風に立つを潔しとせず、おとなしく待つことができなかった。一日、巻狩りの最中に先頭を駆けていた大可汗へ向け、を放ったのである。今より七年前のことだった。

 箭は過たず大可汗の脳天へ向かったが、天の加護でも得ているのか、ふと路傍の狗にかまって体を曲げた大可汗の鬢をかすめただけで、箭は草原の中へ消えた。むろん大逆の大罪であって如何いかな右賢王と雖も誅を免れるものではない。

 捕縛されたアルトゥ・ウルの助命を泣いて請うたのは彼の母である。大可汗からすれば血のつながりのない母ではあったが、先代可汗の死に際し、まだ十八歳であった自分の王位継承の後ろ盾となり、その後も皇太后として陰に陽に支えてくれたのはこの女人である。

 また、四歳で実母を亡くした彼の、幼少時に母がわりとなってくれた女でもある。大可汗はこの女の親身な恩愛を忘れていない。彼女のっての懇願を、大可汗は拒めなかった。


 アルトゥ・ウルの一矢は、最初からなかったことにされた。然非しからざれば死罪以外の結論はあり得なかったからだ。大可汗が冷たく言い放ったおよそ考え難い嘘は、理の黒白こくびゃくかえして契泰のすべての将兵たちに真実となった。代わりに些細な罪科がアルトゥ・ウルにせられて右賢王の位を逐われ、爾後二年は大可汗と顔を合わせることがなかった。彼が可汗の側に侍すことを老臣たちが許さなかったのは当然だろう。

 この大嘘を吞み込んだ者たちも、二年ののちアルトゥ・ウルが右賢王の座に返り咲いた時には、さすがに声をうしなった。

 草原じゅうをどよめかせたこの決定は、契泰の王族重臣たちの間に禍根を残した。

 二年ぶりに兄の尊顔を拝して、右賢王の証である鉄かぶとを賜った時、弟は憤怒に顔を赫くした。不倶戴天と誓い戟を向けた敵に情けをかけられただけで既にして汚辱である。それが軍事を掌る右賢王の位に復せむとは、あたかも我の勇武も野心も完く眼中に在らずと高らか宣べたも同然だ。いかりに顫える顔をあげれば、兄は平然と我を見下ろしている。その背を飾る秋の空ははるか高い。高く抜ける空をアルトゥ・ウルは呪った。

 賜った盔は鳳凰の尾羽根で飾られてあったが、それは堪え難き屈辱の刻印となったのである。


 以来、戦場に於いて右賢王の活躍は群を抜いている。火の如き猛攻で敵を抜き、如何な大軍を前にしようと怯むことがない。まるで身命共その限りを知らぬかの如く。

 忠義ではない。兄可汗のはからいを、恨みこそすれ恩に感じることは毫もない。右賢王は妄執に憑りつかれて常に戦場の最も激烈な戦闘を求めた。

 我が武を見よ。敵を蹂躙する姿を見よ。我が鋭箭は整然たる敵陣を射貫いて崩し、我が利剣は難戦にあって血路を切り開く。斃した敵兵の骸は我が通り過ぎた背後に累々と積もる。血塗られた我が誉れを見よ、憎き兄よ、偉大なる大可汗よ。鳳凰のかぶとは幾万の返り血で赫く輝けども飽かず、く大可汗の血を与えよと怒號する。大可汗よ、これでも我に軍を預けられるか。

 右賢王は、果てることない悪夢のなかに生きている。



※ 可汗カガンとは古代モンゴル系・テュルク系民族の多くに共通する王の称号。カン、ハーン等、多少の異同がある。


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