第12話


 心を決した途端に、顧恵雲は周囲がよく見えるようになった。勿論、それまで周囲の様子を見ていなかったわけではない。だが彼の眼に映るものはいま、その意味をすっかり変えた。先刻までは日々のささやかな喜びに生きる人間であったものは、いまや人型の盾となり柵となって彼の眼前に現れていた。それは赤い血を流す盾だった。

 彼らが我の前に立ちはだかるとき、己は心惑うことなく彼らを斬りすて前へ進めるだろうか。

 自ら発した問いを、顧恵雲は嗤った。この陣にいる者は皆、商の軍を打ち破った者であり、我が同胞の城を囲む者であり、則ち俱に同じ天の下に安んじ得ない仇敵である。甘州の城門が崩れれば、この者たちは勇んだ手と足で、城内の人も財をも蹂躙するだろう。

 彼らを人と見るのが間違っている。敵は敵であって、人ではない。

 顧恵雲の心は落ち着いた。もはや迷いはない。

 一つ不安があるとすれば、いま彼は長剣を持たない。契泰キタイの攻城軍の陣に入るにあたって帯刀は禁じられ、彼も他の特使一行も皆武具一式を預けてあるのだ。ただし短刀は奪われることなく、いまも懐に忍ばせてある。

 兵家の男子として育てられた顧恵雲であれば、幼い頃より剣術を修め長短を問わず剣は自家薬籠中のものとしている。長剣の不帯を一抹の懸念としないではないが、いざとなれば仮令たとえ短刀一本でも敵の首を掻くだけの自信があった。懐の短刀の柄をかたく握りしめ、顧恵雲は遠く、大可汗の馬が帰ってくるのを望見した。


 やがて遠雷のような蹄の音が遠く聞こえた。舞い上がった砂塵に炬火が煙ると見ると、不吉な轟きとともに一直線に顧恵雲の方へと向かってきた。

 顧恵雲は夜空を仰いだ。月の未だ生まれぬ前の満天には無数の星が煌めいている。星が一つ流れた。

 流れた星の行方を追って移した目の先で、馬群の迫るのが見えた。迷いはない。顧恵雲は馬の前途に躍り出で、先頭を走る馬に狙いをつけ馬上の大可汗に向け跳躍した。馬上の将は驚愕し、考えるより先に身体が動いて迎え討ち、だが振るった剣には手応えなく現実感もなく、それはまるで一場の夢のように思われ、周りの者はただ見惚れた。襲撃者は――剣の下にいた。弧を描く剣の下をくぐって刹那、胴に組みつき、同時に右腕は喉から顎をかち上げた。馬は嘶き、馬上で暫しふたりは格闘し、星はまた流れ、消えたと思えばまた流れ、やがてはふたり組んだまま馬から転げ落ち、血がほとばしり、短刀はひかり、やがて断末魔のながい吐息が切れたとき――死骸と刺客の周りを幾重にも騎馬が囲んでいた。

 僅かな、瞬きの間の悪夢だった。

 本懐を遂げた顧恵雲に胸の高揚はなかった。騎手たちに槍を突きつけられ、直ぐにも死を迎えることになるだろうがその運命に些かの悔いも愁いもなく、ただ諦めにも似た満足だけがあった。

 だが直後、馬上から届いた声に、顧恵雲は愕然とした。


「みごとな腕だ。見惚れたぞ。殺すのが惜しくなるほどだ」

 その声は、昼に謁見した大可汗と同じものだったのだ。

 あわてて組み敷いた男の顔を確かめると――違う。男盛りの髭に血を吸わせ、強情そうな分厚い唇から獰猛な歯を剥き出し、濁りない双眸をおおきく見ひらいて、それは敏捷で勇猛であったにちがいない勇士だがどうあっても大可汗ではない。人違いされた男は、顧恵雲の腕の下で息絶えていた。


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