第11話


 顧恵雲は、歩哨の多くいる方へと選って足を向けた。

 兵家に育った者の本能が、本陣の在り処を嗅ぎ分ける。その匂いの中心へ近づくほどに歩哨の増えるのが、彼の嗅覚の確かさを証している。

 何処に可汗の寝所があるかももう見当がついている。だが遠目にも、衛士たちの警護は厳重を極めている。長剣を取り上げられた顧恵雲に、綻びの見えない重囲を剥がして命を奪う方途は、殆どない。

 交渉が満足いく結果に落着するとはまず考え難いとは云え、ともかく交渉は継続中だ。大可汗の本陣を探り当てたことで良しとし、今夜はおとなしく退がるがよかろう。寐る間にも暗殺の妙案が浮かばぬとも限らん、と踵を返したときだった。

 馬の駆ける音が背中から聞こえたかとおもうとすぐ肩のよこを駿馬が通り過ぎていった。あとを追うように吹いた一陣の風が、顧恵雲の髪を揺らした。馬上には王の装いをした将。すぐにまた、十数頭の馬が蹄を鳴らし、あわただしく追った。

 大可汗だ。

 前を行く馬上の将の正体を直覚して、顧恵雲は心臓を凍らせた。やはり今宵なのだ――命を捨てるのは。果たして可汗を討てるかどうかは判らない。いずれ勝算は殆どないにしても、決したわけではない。ただ命を捨てることだけがうに決している。


 大可汗は死をおそれない――将兵たちにはそう見える。戦場に出れば、だれより先に馬を駆り敵中へ躍りこむ。それは馬上に生きる民にとって理想の将の姿ではあり、それが故に大可汗は草原の諸部族の揺るぎなき支持を得ていた。

 思えば七年前、アルトゥ・ウルの罪を不問に付した頃より、その傾向は顕著になってきた。やがて右賢王の座に還ったアルトゥ・ウルの武威は誰もが認めるところであったが、大可汗の雄姿には武威を超える神懸かったものを見、草原の民は心酔を深くした。それは希望だった。大可汗は彼らの太陽だった。

 だが同時に、老臣たちはその大胆を危ぶんだ。おのが命のいと尊きを時に忘れる大可汗。彼の死は、北辺秩序の混乱を意味した。それは草原に生きる民すべての生活を危険に晒すことでもある。

 加えて、いまの右賢王が可汗位に即けば、中枢に居坐る老臣たちの首はべて殆い。七年前、大逆の徒アルトゥ・ウルに死を賜るよう老臣たちが揃って諫言したことは、むろん彼の耳に入っているだろう。

 老臣たちの憂慮は尤もであった。故に大可汗の身に万一の起こらぬよう親衛兵でまわりを固めさせようと努めるのだが、大可汗は煩がって兵どもを捲こうとする。君臣の果てることない鼬ごっこは、大可汗の命を狙う者にとって、凡そ考えられぬほどの僥倖だった。顧恵雲にも同じ僥倖は与えられたが、その僥倖は自身の死を決定づけるものでもあった。

 否、その死は疾うから定められていたのだ。顧恵雲は蒼褪めた面を上げ、歯を喰いしばった。篝火がその眸に映った。篝火の揺れが、風の強さを示していた。黄塵を孕んだ風は秋を前にして弥々いよいよ涼しい。

 いずれ大可汗が物見から戻り、此処を通りがかるだろう。そのとき若し、親衛兵たちを遠く捲いて護衛が手薄となっていれば、己は必ずや――殺して、殺される。名は永遠となる。

 風がまた吹いて、篝火は一瞬消えそうになった後、激しくえあがった。蒼白だった顧恵雲の頬にも紅が映った。


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