第10話


 その夜。

 顧恵雲は客用に宛てがわれた幕舎にやすんでいる。

 馬頭琴の奏でられるのが遠くに聞こえる。歩哨が草を踏む音が旋律を刻む。風に人の声が溶けて妖しく鳴る。顧恵雲は眠られない。

 今日の謁見の首尾をよかったと云ってよいのかどうか、判断を下しかねている。正使は言葉を詰まらせ、副使は面を伏せたあと、長く再び上げることができなかった。武官たる顧恵雲は語る資格を持たず、その間ただ黙して経緯を見守った。

「使者は熟考の時間を要するようだ」

 大可汗は使者ではなく、一堂に坐す重臣たちへ言った。

「明日答えを聞くこととしよう。使者たちに宿舎を用意せよ」

 最後の言葉は左右の近習への命だ。

 近習たちに促され立ち上がると、顧恵雲は大可汗へと目をやった。視線を感じたか、一言も発しなかった武官へ大可汗が視線を返し、一瞬ふたりの目が合った。目の奥で大可汗がなにを考えているかは窺い知れない。陣幕のうしろに吹く風は草を揺らして客の未来を占うかのようだ。


 会ったその日に可汗の首を獲れるとは思っていなかった。謁見の場はやはり周囲を臣下の者たちが固めて、帯刀を許されない顧恵雲が暗殺に成功する可能性は無きに等しい。隙を見つけるための時の猶予は彼の渇望するところだ。

 であれば、彼らとの交渉は一日で終わらせてはならず、揉めに揉め、長引けば長引くほどよい。正使の凡庸は、顧恵雲にとって天恵だった。むろん、その場で斬りすてられる惧れもあったわけだが、場が乱れれば千載一遇の機が現出しないとも限らない。もとより生還を期さない任である。若しも可汗の激昂することあったとて、それは望む処であるのだ。

 ひとまず、結論は一日先へ持ち越された。だが短時日のうちに事は決するだろう。即ち、暗殺の挙もせいぜい両三日のうちに決さねばならぬわけだが、幾重にも繞らされた警護の輪は容易に穴を見出せない。

 思惟を天幕の内に巡らせても悶々とするばかり。夜具を跳ね上げ起き直ると、幕舎の境目まで音を立てないよう注意しながら進み、耳を澄ませた。外は相変わらずの風吹く曠野だ。

 意を決して入口の二重になった幕をめくると、夜陰の世界へそっと踏み出した。朔日の空には一面の星が鏤められ、耿耿と光を投げている。

 野営地はあちこちに篝火が焚かれて、闇夜のなかに幾つもの幕舎を浮かび上がらせている。

 向こうにふたり、歩哨が退屈そうに立っているのが見える。顧恵雲には気づいていない。昼に見まわしたときも思ったが、彼らの軍装には統一感というものがまるでない。おそらく各地から寄り集まった諸部族の衣装が入り混じっているのだろう。ならば、商の装いに身を包んだ顧恵雲にも、つけ入る隙はあるのかも知れない。

 はじめ警戒していたのが、次第に大胆になって、しばらくの後には幕舎から幕舎へと巡り歩いていた。

 歩哨は疎らにしか見あたらない。歩けど舎は次々あらわれる。馬頭琴の旋律に導かれて進むとややひらけた場に出て、幾人かが坐りこんだまま声低く歌っているあたりは、さすがに幕舎も途切れている。途切れたと思うとすぐまた、いくつか塊っているのがその先に見えてくる。

 夕涼みがてらか、女が幕舎の横壁に背をもたれさせて赤児に乳をやっている。乳をふくむ赤子の額には汗がつぶになって泛んでいる。晩夏、夜の風は冷たい。



※ 馬頭琴とは、胡弓の一種。名の通り、先端に馬頭の彫が施されている。


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