Ⅰ.ジェラルドの日常と行き倒れの男(3)
「そうか。それは、すまないことをしてしまったな」
ジェラルドの正面に座ったジャンルカは、眉尻を下げている。対してジェラルドは、「いいえ」と言いながら、首を横に振った。
ベネデッドと別れたジェラルドは、ジャンルカとチェーザレに連れられて、城の奥にあるテラスの一角に来ていた。先日、宰相交代を聞かされた部屋よりも、更に奥になる。通常、王族と身の回りの世話をする者、宰相、近衛隊の中でも許可を得た人間しか入ることができない区画だ。ジャンルカ付きの侍女はにこやかな顔をして茶を置いていったが、ジェラルドは内心落ち着かなくてしかたがない。
「しばらくは、ジェラルドの顔を見ることが、できなくなるであろう? その前に、こうして他の目が無いところで話がしたかったのだ」
この国の王太子は素直で、時折臆面も無く嬉しいことを言ってくれる。一臣下を慕ってくれる彼の心に比べれば、ぶどう酒の試飲ができないなど小さなことだ。
ジェラルドは、ほほ笑んだ。
「ありがとうございます。私も、仕事としてでなく、殿下とお話させていただきたいと思っておりました。試飲の件は、ご心配なく。後で、チェーザレにおごってもらいますから」
隣りから、「えっ」という声が上がる。つま先で彼の靴を突いてやると、チェーザレは小刻みに頷いた。
「殿下は、なーんの心配をされることもありませんよ。うまい酒を出してくれる店なら、知っていますしね」
チェーザレの不自然な笑い方に、ジャンルカは首を傾げる。
「そうか? それなら、よいが」
「ええ。それより、殿下。お礼状の件ですが、グスターヴォ様にお話してまいりました。別に、お礼の品を選んでいただけるそうです」
「うむ。グスターヴォであれば、叔母上の好みも熟知していよう」
ジャンルカが、満足そうに頷いた。チェーザレは、「なるほど」と呟く。
「それで、外交府に行っていたのか」
「ああ。行く途中で、ベネデッドと行き会ったんだ。今、起こっていることを知っておいた方がいいと言われて」
「それは、俺達も聞いていい話なのか?」
チェーザレの問いに、ジェラルドは頷いた。別れ際にベネデッドから、彼等には話すべきだろう、と耳打ちされている。
「いずれ、殿下のお耳にも入ることです。楽しい話ではないので申し訳ありませんが、誰の目も無い今、お話するべきことなのです」
「そなたが、そう言うのだ。国の大事の話なのであろう? 申せ」
ジャンルカの聡明さとジェラルドへの信頼を感じて、ジェラルドは深く頭を下げてから、外交府で聞いたことを二人に語って聞かせた。相槌を入れることさえ無かった彼等は、ジェラルドが話し終わると小さく唸った。
「内政府の身内ばかりを狙う海賊か。今のところ内政府からの報告は無いが、心中穏やかでは無かろうな」
「報告が無いのは、狙われたのが、身内であって、本人ではないからでしょうね」
内政府の人間に思いを寄せるジャンルカに、チェーザレは意見を述べる。
「もちろん、身内を攻撃されれば気にはするでしょう。しかし、まさか自分のために身内が狙われたとは思わない。情報共有をしないため、互いに被害を受けた者同士だという認識が無いのでしょう」
「仮に、自分が内政府に身を置くために身内が狙われたのだ、と認識していたとします。その場合でも、敵が同じ内政府の人間ということもあり得ますから。誰が敵か分からないと疑えば、周囲に相談することなど、できないのではないでしょうか」
ジェラルドとチェーザレの言に、ジャンルカは頷いた。
「なるほど。わかった。グスターヴォとベネデッドの言う通り、この件は秘密裏に事を進めよう。海上の警備についても、前向きに考えてみる」
「グラート様に話がいけば、すぐにでも近衛隊は動くでしょう。見回りが内政府を通る回数を、それとなく増やせばいいだけですからね」
次期近衛隊隊長と決まっているだけで、チェーザレにはまだ近衛隊のすべてを動かす権限が無い。「うむ」と頷くのみに留めたジャンルカも、理解しているようだ。
「なるべく速く、解決するよう努力しよう。それこそ、復帰したジェラルドが手を
目を細めるジャンルカに、ジェラルドは「期待しております」と言って笑ったのだった。
一旦、海賊の話を横に置いた彼等は、先日の花の大祭の話やジェラルド達の士官学校時代の話をしながら夕刻まで過ごした。二人が城を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
結局は、本当にチェーザレが酒をおごるという話になって、彼の馬車に二人して揺られている。
「そういえば、君は仕事は良かったのか?」
向かいに座るチェーザレに尋ねれば、彼は笑顔のまま頷いた。
「さっきのは、殿下の護衛も兼ねていたんだ。城を出る前に軽く引継ぎもしておいたし、問題ない」
念のために、宰相の執務室を見に行った時だろう、とジェラルドは考える。エルネストが戻っていないかと確認しに行ったのだが、彼は不在だった。
「それにしても、海賊か」
チェーザレは渋面を作りながら、横に置いてあった話を持ってくる。
「正直に言うと、海上の警備は難しいんじゃないかと思っている」
「ああ、ベネデッドも言っていたよ。東北の峠の件もあって、人数を割くのが難しいと」
「それもあるんだがな。大きな声じゃ言えないが、いまや内海の交易は下火だ」
「東の大国のせいだな」
ジェラルドが言うと、チェーザレは頷いた。
エルネストが先代と交代するよりも以前から、その傾向はあった。大国に東方諸国との交易を阻まれ、交易品として国にもたらされる物は高価になるばかりだ。警備隊が東北の峠を根城にする賊に躍起になっているのは、何も東に貴族の別荘地があるためだけではない。
「内海がダメ。東北の峠も、商人が安心して通行できる日は、いつになるか分からない。となると、外海に出るしかない。だから、外交府はラモとの国交に力を入れている。アントーニは単にカルロス王太子と仲がいいだけだが、よくラモに赴くのは交易についての交渉のためだろう。カルロス王太子はサラ王女のお転婆ぶりを笑い話として吹聴しているが、彼女は外海での交易に積極的だというし、新航路の発見もできているという。この国の商人の中には、ラモの船団と偽って外海に出ている奴もいるらしい」
「そのような状況では、内海の交易のために警備を置くなど今更だ、と考える者も出てくるだろうな」
「ああ。これが、東の大国の脅威に対抗するためというなら、まだ格好がつくんだがな。そこまでの戦力を割けるほどの人員が、今の警備隊にはいないだろ?」
「その通りだ」
ジェラルドは両手で顔を覆って、大きくため息を吐いた。
現国王が就いて数年の間、士官学校から近衛隊に進む枠は増加されたが、警備隊に進む枠は減少された。彼は、自身や足元の街を強く見せることにこだわった。ジェラルド達の代に警備隊の入隊枠が増えたのは、エルネストの先代が命懸けで一喝したからだとも言われている。しかし、数年の間にできた警備隊の穴は、いまだに埋まっていない。
「海上警備が期待できない以上、陸上警備でどうにかするしかないな。ほら、着いたぞ。今は殿下を信じて、酒を楽しめよ。せっかく、おごってやるんだから」
笑顔を見せられても、ジェラルドには無心で酒を楽しめる気がしない。チェーザレを恨みがましい目で見ながら、馬車を降りた。
『黄色い蝶通り』と呼ばれる通りは、雑貨に服屋、飲食店が立ち並ぶ通りだ。昼間も賑やかいが、夜間もそれなりに人がいる。道行く人は、みんな笑顔だ。馬車の中で話したことなど、彼等の頭には無いのだろう。
「見ろ。みんな、楽しそうだぞ。彼等の笑顔を、俺達は守っているわけだ。それぞれに守る形は違うけどな。仲間を信じろよ」
チェーザレに背中を叩かれ、ジェラルドは「そうだな」と言いながら目を和ませた。
通りに立ち並ぶ店には、それぞれに鉄でできた看板をぶら下げている。ジェラルド達が行きつけにしている『黄色い蝶』という飲み屋には、殊更に意匠を凝らした蝶が飾られていて、通りの名前となっている。
その入り口に、蝶の意匠とは不釣り合いの大男が転がっていた。
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