Ⅲ.薄茶色の便箋(1)

 はたして国王というものは、簡単に出歩ける人物だったろうか。少なくとも先代が城下に出掛ける時は、とてもお忍びとは思えぬほどの護衛を侍らせていたものだ。先代も行き過ぎたところが多々ある人物であったが、ジャンルカの奔放ぶりにも頭を抱えたくなる。


「なんだ、その顔は? せっかく自ら迎えに来てやったというのに」


 腕を組み、反り返って頬を膨らませる姿は、拗ねて開き直った幼い子供と変わらない。


「ありがた過ぎて、涙が出そうですよ。陛下」


「ありがたい顔というのは、そういう顔を言うのだな。よく分かった」


 ジャンルカは、馬車から軽やかに飛び降りた。多忙なうえに、無駄な殺生を良しとしない性格だからだろう。狩りには出向いたことがない国王だ。しかし、若葉色の狩り装束は不思議と似合っている。


「まあ、よい。今日のところは無礼も許そう。私は、宰相ジェラルドの復帰を嬉しく思う」


「ありがたき、お言葉にございます」


 片膝を付き、頭を下げる。すぐに、ジャンルカの手が差し出された。


「早く馬車に乗るがいい。後は、城でゆっくりと話そう」


 手袋が外された手を、素直に取る。武器を持つことがあまりない指は、長くて綺麗だ。


「本来なら、逆の立場ですね」


「臣下の手を引き、導いてやるというのも、たまには良いものだぞ」


 笑い合いながら馬車に乗り込むと、中ではチェーザレが待っていた。小憎らしい顔を見るのも、3日ぶりだ。


「やあ、チェーザレ。君はなぜ、ここに?」


 お止めする立場だろう、と睨んでやっても効果は無い。不幸にも、ジャンルカとチェーザレの考え方は似ているところがあり、2人で組んで悪巧みをしようものなら手に負えないのだ。被害の多くは頭の固い老人たちに向かうが、たまに執務室にまで及ぶことがある。


「近衛の隊長が陛下のお忍びに付き従うのは、当然のことだろう」


 肩をすくめる彼のことだ。今回も、ジャンルカと手を組んだのだろう。一応は王族専用の馬車を使用しているが、城では古株連中が王の不在で大騒ぎしているに違いない。窓を開け、御者の顔をよく見れば、近衛隊所属のニーノだからだ。


「おまえも大変だな」


 思わず同情の声を掛けると、「宰相ほどではないですよ」と返ってきた。城内での評価が分かる。苦労人、だろう。


「危ないですから、座っててください。出発しますよ」


 言葉に従ってチェーザレの横に座ると、馬車は静かに走りだした。意外とうまいものだと思った矢先に、椅子が跳ねる。顔をしかめると、国王が苦笑いをした。


「これでも随分と慣れたものだぞ。城を出た直後は、生きた心地がしなかったのだ。御者殿には悪いがな」


 御者など勤めたことがないニーノにしてみれば、最上の身分の人間を乗せているのだ。相当な緊張感を強いられただろう。「かわいそうに」と呟く。向かいのジャンルカには聞こえなかったようだが、隣りのチェーザレには届いたらしい。舌を出すが、かわいくない。


「さて。さっそくだが、朝一番の仕事だぞ」


 稲穂頭の男は、袖口から中指の太さほどに巻かれた紙を取り出した。受け取って、1行目を黙読する。チェーザレによって書かれた、ジャンルカの1日の予定表だ。休暇を得る前は、寝起きの彼の目の前で読み上げるのが一つの日課だった。不在の間は、近衛の隊長が請け負っていたらしい。


「では、陛下。本日のご予定ですが」


 決まり文句が、少し懐かしく感じられる。


「まず、6時よりミサを行います。7時に朝食を取られた後、8時半より近衛隊隊長チェーザレとの剣の稽古となっておりますが」


「一応、やったぞ。馬車の中で」


「どうやったら、馬車の中で稽古ができますか」


「これだから、普段から剣を振るっていない者は困る」


 チェーザレが、首を横に振った。事実ではあるが、彼から言われるのはおもしろくない。


「野外と室内では、振るい方が違うんだよ。室内で大きく振りかぶると、どうなるか分かるか?」


 彼が示す朱塗りの天井を見る。なるほど、と思った。


「切っ先が引っ掛かるんだな」


「その通り。そこで、これだ」


 チェーザレの握り拳が、ジェラルドの脇腹の寸前で止まる。実際に襲われることはないと分かっていても、身が竦んだ。

 八重歯を見せて笑う幼馴染の手が開かれる。筆記具より少し細いくらいの鋼の針が現れた。


「暗器を扱うのは、アントーニだけかと思っていた」


「あいつは、もっと手の込んだ武器を仕込んでいるがな。おそらく、おまえに見せることは一生無いよ。俺も、これが最初で最後だと思う」


 針は、緋色の上着の裏側に隠された。知らないだけで、様々な武器が長い衣に仕込まれているのだろう。


「外交官や近衛隊、王族は皆、この手の武器を持っている。本当なら宰相のおまえだって持つにこしたことはないだろうが。おまえは、扱いが下手そうだな」


「悪かったな」


「ばか。褒めているんだ」


 中指で、額を弾かれる。爪が当たって痛い。


「こんな時でないと、なかなかお教えできないからな。稽古内容を少し変更したわけだ」


 国王の命を守るための一環ならば仕方がない。頷いて、次を読む。


「9時半からは休憩となっておりますね」


「それは、今の時間で無しとなるな」


 ジャンルカが、金色の懐中時計を確認する。先王の遺品の一つだ。


「10時からは政務ですが」


「午前中は、おまえと話すだけで終わりになりそうだが。昼までだったろう?」


「はい。申し訳ございません」


「よい。むしろ長期療養中だった者に無理をさせれば、私の方が叱られる。それに、狭量よと言われるのも癪に障る。今まで待ってやったにも関わらず、だぞ?」


「確かに、そうですね」


 「だろ?」と笑った彼は、時計を胸元にしまった。「では、次へ」と促され、視線を下げる。


「12時に昼食。13時からは謁見……かなり大雑把だが、これは?」


 書いた本人の目の前で、紙を振ってやる。肩眉を上げた彼は、不敵ともとれる笑みを見せた。


「アントーニが苦戦したという崇高なるじじい共が、わが国王にぜひお目に掛かりたい、と仰ったらしくてな。どんな面か、見てやろうと思ったのさ」


「では、外交ですね」


 チェーザレの言論にはあえて触れず、ジャンルカを見る。生真面目な顔で、一つ頷いた。


「私は若く、即位してからの年月も深いとは言えぬ。本当は傍らにおまえが控えていてほしいところだが、甘えたことも言っておれぬ。まあ、代わりにチェーザレが隣りにいるのだがな。せいぜい舐めた目で見られぬよう、努力する」


「ええ、ご尽力ください。陛下なら、大丈夫ですよ」


 少年は、もう一度深く頷いた。問題は、彼よりも稲穂頭の方だ。表情を見ただけで、完全におもしろがっていることが分かる。


「君も、失礼のないようにな」


「俺を誰だと思ってるんだ? 卒なくこなすさ」


「君だから心配なんだよ」


 ただでさえ、チェーザレは彼等に受けが悪いのだ。知らず、ため息が出た。


「14時半から休憩となっております。話によっては、時間が前後するかもしれませんが」


「構わぬ。誰であろうと、大切な客人に変わりない」


「そうですね。15時から1時間は、お勉強です。私がいないからと言って、放り出すことがございませんよう」


「失礼な奴だな。おまえが休みの間も、しっかりとこなしておったわ」


 腕を組み、鼻を鳴らす仕草がかわいらしい。謝りつつも笑みが零れた。


「16時からは会議となっております。本日の議題は」


「南の堤防の件だな。だいぶ老朽化が進んでいるらしい。本格的な雨季がやってくる前に、補強だけでもせねばならん」


 休養中に上がった報告だろう。他にも知らない案件があるに違いない。明日からは情報収集にも励まねば、と気に留めておく。


「18時に夕食。19時から1時間は、書類に目を通していただくことになりますが……この後は、なんだ? チェーザレ」


「なんだとは、なんだ?」


「最後のところだ」


 紙を指で叩き、最後の予定に目を向けさせる。ジェラルドの家へ向かう。1日の締めくくりは、たった一言だけだった。


「書いてある通りだが」


「私の家に向かって、その後が無い」


「泊まるからだろ?」


 飄々と言ってのける男の足を踏んでやった。力を込めて踏みつけたつもりだが、座っているため効果は期待できない。


「どこの世界に、臣下の家に寝泊まりする国王がいるんだ」


「やめよ、ジェラルド。そうしたいと言ったのは、私だ」


 止めに入るジャンルカを見る。なぜ泊まりたいと言ったのか。すべては、尊い顔に書いてある気がする。


「幽霊ですか? 陛下」


「その通りだ」


 正直なのは良いことだ。しかし、両肩が重く感じるのは、なぜだろう。


「おまえのところには、2度も出たというではないか。私も見たい」


「そうは仰いますが、陛下。そう都合よく現れるとは限りませんよ」


「いいえ。必ず現れますよ」


「なぜ、そう言い切れる? チェーザレ」


 彼を見れば、右の口角が上がっている。自信の表れだ。


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