Ⅱ.黄色い蝶々(3)

「ところで、もう一つ陛下からお聞きしたのだが。おもしろい噂が流行ってるらしいな」


 アントーニとベネデッドは、茹でた豆を肴にしている。チェーザレも1粒、口の中に放り込んだ。


「左の足首だけの幽霊か。俺の部下のところに、実際出ている。噂じゃない」


「城には出ないのか?」


「今のところ、城下町だけだね。少なくとも、俺が宿直の時に出たことはないな」


 今度は、粥を食べる。チェーザレは愚痴りはしたものの、結局は豆の塩気と粥とで酒を楽しんでいる。


「警備隊の中にも、家に出たって奴等が数人いる」


「客の中にも4人くらい、いたな」


「その数は、多いかどうか微妙なところだな。陛下からは、見ていない者の方が珍しい、と伺ったのだが」


「つい3日ほど前に、同じ話を伺ったぞ。からかわれたな、アントーニ」


 ジャンルカは、いまだ幽霊話に大きな関心を寄せているようだ。数日前はジェラルドの家の事情に触れてしまったが、今回は別段憂いも無い相手だ。存分に、おもしろがったのだろう。


「そのようだ」


 アントーニは、一気に酒を飲みほした。


「しかし、害が無いのは救いだな。なんか聞いて回ってるだけなんだろ?」


「ああ。『靴をちょうだい』だったか」


 一斉に、視線がジェラルドの手元に集まった。匙を落としたのだ。幸いにも粥は食べてしまった後だったため、米粒が飛び散ることはなかったが。


「そういえば、聞いた」


「陛下からだろ?」


「いや。寝ている時に、少女の声で」


 友人はおろか、主人までもが身を乗り出している。


「見たのか? 足首」


「いや。疲れていて、顔を上げるのも億劫だったから。声を聞いただけだ。今日の肴にしようと思って、忘れていた」


「そうか。見てないのか」


「だが、靴をくれてやった」


 気落ちした友人たちは、ジェラルドの言葉に再び目線を上げる。


「くれてやった、だと?」


「『靴をちょうだい』と言われたんだが、とにかく疲れていて。やれば消えるかと思い、荷物の山を指差した。夢だと思っていたんだが、違ったらしい」


「それで、あの惨状だったのか」


 1人納得した様子のチェーザレに、ベネデッドが拗ねたように口を尖らせる。酔いに任せた仕草なのだろうが、大男にはあまり似合わない。


「あの惨状って?」


「迎えに行ったら、部屋の中が散らかり放題で酷いものだった。エレナ嬢の靴を探していたのは、そのせいか」


 けたたましい音が響く。再び椅子を倒したベネデッドは、顔を引きつらせていた。色も、あまり良くない。


「今度は、どうした?」


 アントーニが尋ねるが、口を開いたり閉じたりするだけで答えは無い。どこか遠くを見ていて、こちらに視線をくれようともしない。さすがに心配になったジェラルドが、肩を揺さぶる。ようやく焦点が合った男は、人の腕に縋りつくように泣き始めた。


「ごめん。ごめん。ジェラルド。俺は。俺は」


「君が、どうした?」


 どうにも様子がおかしい。肩を押して距離を取り、顔を覗き込んでやる。泣き上戸は、手を口元に置いた状態で言い放った。


「吐く」


「ここでは止めてくれっ」


 主人が叫ぶ。あまりのことに呆然としてしまったが、チェーザレに腕を引かれることで救出された。婦人が掃除用の鉄製の桶を持ってくる。運よく間に合ったようだ。


「今日は、これが限界だろう」


 チェーザレがベネデッドの背中を撫でながら、こちらに言う。アントーニと顔を見合わせるが、見解は同じらしい。これ以上ここにいても、店側に迷惑を掛けるだけだ。通いづらくなるのは、双方共に困る。

 話し合いの末、ベネデッドと帰る方向が同じであるアントーニに彼を任せ、解散することになった。『黄色い蝶』の出口で2人を見送ったが、足取りはとても危うい。


「あれは、アントーニの家に泊めてもらった方が良いかもしれないな」


「確かにな」


 アントーニの家は、『黄色い蝶通り』からほど近いところにある。ベネデッドの家に向かうとなると、倍以上の距離を歩く必要があった。体格が似通った2人とはいえ、片方は酔っ払いだ。無事に着くのは、難しいかもしれない。


「ところで、だ」


 首にチェーザレの腕が回され、体重を掛けられる。重いうえに暑苦しい。


「俺も酔ったみたいでな。おまえのところに泊めてくれないか?」


 耳に息を吹き入れるように話されるのが、また腹立たしい。彼の目的など、お見通しだ。


「あわよくば幽霊に会えるかもしれない、という魂胆なのだろう?」


「ははっ。分かるか」


「見え見えだ、ばか」


 横腹を軽く殴ると、おとなしく身を引いた。


「今までは転々としていたが、おまえが靴を与えたことで状況が変わるかもしれない」


「次を要求されるかもしれない、ということだな?」


「その通りだ」


 一つ、ため息を吐く。億劫だったためにしたことが、かえって次の面倒ごとを引き起こしてしまったかもしれない。


「分かった。私は寝てるから、もし幽霊が現れた時は、君が対応してくれ」


「了解」


 チェーザレは八重歯を見せて、いたずら好きの子供のように笑ったのだった。


 ◆◆◆


「おい、ジェラルド」


「ん? なんだ? 場所なら換わってやらないぞ」


 腕に掛けられた手を、ゆるい動作で払う。泊っていくというチェーザレに客間を用意しようとしたのだが、そこでは幽霊が出ないかもしれないと断られた。ならば長椅子だけでも譲ろうと言えば、仕事で慣れているからと自ら床を希望したのだ。真夜中になって換われと言い出されても、迷惑なだけだ。


「そこで良いと言ったのは、君だろう」


「そうじゃない。出たぞ」


 言われて初めて気付いたが、彼は先から小声で話している。薄目を開けてみたが、特に変わったものは見当たらない。ただ、廊下へと続く戸があるだけだ。


「なんだ。何も無いじゃないか」


 再び目を閉じると、チェーザレに人差し指を引っ張られた。


「ばか。もっと下だ。言っただろう? 足しかないんだよ」


「ああ、そうだったか。だが、私は『君が対応してくれ』とも言ったな」


「そうだった、な」


「では、寝るから起こすなよ」


 納得したのか、諦めたのか。指から手が離れていく。目を開く気にはならなかったが、眠りに落ちることもできなかった。疲れた体は重く感じても、耳だけは聡く機能するらしい。


「今度は、何がお望みだい?」


 驚くでもなく怖がるでもなく、半ばからかうような問いかけに、相手は怯んだようだ。「ああ、怖がらなくてもいいよ」と、優しく諭す声が続いた。


「君の望みを聞きたいだけなんだ。なんでも叶えよう」


 では、あなたの命をちょうだいと言われたら、この男はどうするつもりなのか。不用意な発言に少し呆れると、また指を引っ張られた。


『服をちょうだい』


「服だってさ、ジェラルド」


 すぐに話を振ってきた男に腹が立つ。


「起こすなと言ったし、対応してくれとも言った」


「起きてるだろう。対応はするが、物の在り処が分からない。エレナ嬢の服は、どこだ?」


「そこ」


 右手はチェーザレに捕らわれ、左手は己の体の下にあって痺れている。仕方なく右足を上げて、つま先を伸ばした。示す方向には、寝る前に積み上げておいた荷物の山がある。


「これは探し甲斐がありそうだな。少し待っててくれたまえ。たぶん、かわいいお嬢さん」


 幽霊を相手にしているとは思えない口調の幼馴染は、立ち上がるとろうそくを灯したらしい。ほのかな明かりが、目蓋の裏からでも見える。左手を自由にするために寝返りを打つと、背後から物音が聞こえた。たまに金属がぶつかる音もするが、多くは衣擦れの音だ。


「お嬢さんは、何色が好きかな? 赤? 青? ああ、これなんて、どうだろう」


 目ぼしいものを突き止めたらしい。心霊現象には似合わぬ喜びの声がする。


「黄色のワンピースだ。踊ると、裾が翻る。黄色い蝶々になれるよ」


 どこかで聞いた言い回しだ、と思った。


「ほら、君によく似合う。靴が、ちょっといただけないけどね」


『ありがとう』


 チェーザレと少女が笑い合う。

 そのような光景を、数年前にも見たことがあった。自分と彼の娘に、1着ずつ服を買ってくれた時のことだ。黄色と白の揃いのワンピース。『黄色い蝶』に行きつけになったのも、同じくらいの時期からだった。彼はこの時、まったく同じやり取りをエレナとしたのだ。


「消えたよ、ジェラルド」


 暗い天井を見上げていると、いつの間にか笑顔のチェーザレが覗き込んでいた。優しい瞳の色に、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。


「すまなかった」


「なにが? 床に寝かせたことか? それとも、人に家探しさせたことか?」


「全部だ」


「全部、か」


 床に座り込んだ彼は、背を長椅子に預けた。右腕に、人のぬくもりが伝わる。


「いつか、黄色と白の蝶が舞う夢を見たい」


「ばか言うな。現実にするために、俺達は探している」


「そうだったな」


 再度、目を閉じる。目頭が熱かった。

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