Ⅱ.黄色い蝶々(2)
「わが友よ、よく帰ってきた」
「おかえり、アントーニ」
左右に広げたチェーザレの腕が、なんとも邪魔だ。腰を屈めて覗き込むと、鉄製の酒器を置いたアントーニが嬉しそうに立ち上がるところだった。
「おお、チェーザーレ。ジェラールド。相変わらずだな。元気だったか?」
それぞれに握手を交わすアントーニの手は、へたな武人よりも大きくて厳つい。乾いた手に触れるのも、久し振りだ。
「おまえには負けるが、俺も城の連中も元気だよ。ジェラルドは見ての通りだがな。主人、こいつは酒無しで。胃に優しいものを頼む」
肩に回されたチェーザレの手によって、右側に引っ張られる。奥にいた店主の顔を、ようやく拝むことができた。先客と一緒に飲んでいたのか、頬が少し赤い。
「わが国が誇る宰相殿は、顔色がお悪いな。無理して引っ張ってきたか、チェーザレ」
「馬車に押し込められたんだ」
「うるさいぞ、ジェラルド。その通りだがな」
黒髪を掻き回される。元々梳くことすらせず乱れていたものが、更に絡まってしまったようだ。大きく玉になったところが頭皮に当たって気になる。
「おまえ、ここのところ手入れを怠ってるな? 綺麗な髪が、台無しじゃないか」
掻き回していた男も気になったらしい。今度は、手櫛で丁寧に梳いてくれる。
「ジェラルドは、粥だな」
「勘弁してくれ。私も酒でいい」
店主に勝手に献立を決められ、慌てる。周りが酒の中、1人だけ粥を食べるなど冗談ではない。4人の中でも、アントーニと競うほど酒が好きなのだ。虚しくなる。
「だめだ、だめだ。陛下にお聞きしたぞ。長期療養中だとな。おまえの分は俺が飲んでやるから、心配するな」
「長期療養も、近日中で終わりだ。私の分は、飲んでくれなくても結構だ」
チェーザレに捕らわれたまま、アントーニと睨みあう。
不意に、椅子が倒れる音がした。驚いて振り向くと、今まで傍観に徹していたベネデッドが、顔を紅潮させて立ち尽くしている。体が震えているようだが、もう酔ってしまったのだろうか。
「ベネデッド、どうした?」
「復帰するのか? ジェラルド」
声も震えている。酔いの疑いが、ますます濃くなる。戸惑いながらも頷くと、「良かった。良かった」と涙を流した。
アントーニと引けを取らない体格をした男は酒に弱く、感情も高ぶるらしい。多少扱いに困ることもあるが、普段が警備隊隊長として威厳に満ちた態度で振る舞っているだけに、対比がおもしろい。隊長の変わりようが見たい。ただ、それだけのために飲みに誘う隊員も後を絶たないほどだ。
「ベネデッドが、あれほど喜んでいるんだ。今日は、粥で我慢しとけ」
「そうだぞ。俺も、1杯だけで我慢してやるから」
「では、チェーザレには酒と粥だな」
「なぜ、そうなる。粥で酒が飲めるか」
チェーザレと店主の睨み合いを見てから、ベネデッドに視線を移した。彼は、泣き続けている。紺色の袖には、染みができていることだろう。酔いのせいとはいえ、ここまで喜ばれると気恥ずかしい。苦笑する横で、稲穂頭がため息を吐いた。
「ああ、ああ、分かった。俺の今日の肴は粥でいいから、いい加減泣き止んでくれよ、ベネデッド。袖に隠れて、おまえの顔が見えやしない」
チェーザレに頭を小突かれ、ようやくベネデッドは目の前から腕を外した。日に焼けた精悍な顔が、涙と鼻水で汚れてしまっている。こちらに向けられた濡れた黒い瞳は、幼い子供のもののようだった。
「せっかくの良い男が台無しだぞ。これ、使え。返さなくていい」
小突いた男が、白いハンカチーフを提供する。
「おまえがハンカチーフを持っているとは、意外だな。しかも、白い」
「アントーニ。これは、応急処置に役立つものだ。近衛に属する者としては、常に携帯するのが嗜みというものだ」
得意気に胸を張るが、褒めるべき人物がチェーザレでないことをジェラルドは知っている。折り目が揃っているのは、一重に彼の貴婦人のおかげだろう。夫の身の回りの世話は侍女に任せる女性が多い中、彼女は好んで働くのだという。
「それなら、俺も持っている。警備隊も応急処置として」
「だったら、鼻をかむ前に言え」
苦虫を噛み潰したような顔をしたチェーザレは、ベネデッドの頭を更に小突いた。泣き上戸も、ようやく涙が止まったらしい。「すまない」と小声で謝罪しながら、笑っている。
「で、長期療養とは、どこが悪かったんだ? ここか?」
幼馴染の手から逃れ、アントーニと向き合う。彼は、自分の心臓の位置を指さしていた。やはり、鋭い。
「相変わらず、話が早すぎて困る」
思わず苦笑を漏らすと、彼は首を横に振った。
「いや、話の早さならチェーザレに劣る。俺は、おまえの屋敷が焼けたことくらいしか知らん」
「離れていたのに、そこまで知ってるんだ。たいしたものだ」
「茶化すな」
アント-ニに、両耳を引っ張られる。本人は加減しているつもりだろうが、痛い。
「ま、言いたくないものを無理に聞き出すつもりはない。が、俺にも、何かできることはないか?」
「俺にも、とは?」
「さっき、ベネデッドに聞いた。おまえのためにチェーザレやベネデッド、陛下までもが協力している、と。友として、何かできることはないだろうか?」
真摯に話す時の彼の濃藍色の瞳は吸い込まれそうなほど深く、魅力的だ。外交の際にも、話術というよりは目の力がものをいっているのかもしれない。
「公私を混同しておこがましいかもしれないが、仕事を手伝ってもらえるとありがたい。まだ長い時間を外出するのは、精神的な負担が大きい。いくら部下やチェーザレががんばってくれても、限度というものがある」
「そんなに溜まってるのか?」
「ジェラルドの仕事の速さを思えば、そりゃ」
チェーザレは、両手をいっぱいまで広げた。振り返り見たアントーニはおろか、自分もため息が出る。そこまで支障が出ていたとは知らなかった。今回の件を、ジャンルカはどれほど広い心で捉えているのだろう。
「安心しろ、ジェラルド。書類整理は得意分野だ。しばらくは国に滞在する予定だから、共に片付けよう」
「そう言ってもらえると心強い」
「はいよ、ジェラルド。チェーザレも、待たせたな」
主人が、2人分の粥を渡してくれる。次いで出てきた酒と見比べ、チェーザレは渋い顔をした。
「本当に酒と粥が出てくるとは、やってくれる」
「文句を言うなら、飲むぞ」
酒に伸ばされたアントーニの手を、彼は素早く叩いて止めた。それを横目に、1口食べる。優しい味も、しばらく何も入れていなかった胃には焼けるほど熱く感じられた。3口目からは、止まらなくなる。自覚していなかったが、体はよほど飢えていたらしい。
「良い食いっぷりだな」
主人から、感嘆の声が漏れるほどだった。
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