Ⅳ.大祭を邪魔する虫(5)

「悪魔さーん。持ってきたよー」


 変声期前の少年の声がして、人だかりが空間を空けた。白いハンカチーフを持った少年が、駆けてくる。その遥か後方から、ソロモンがふらつきながら追ってきていた。体力が無い彼を見かねて、少年がハンカチーフを預かったようだ。悪魔というのも、ソロモンから聞いたのだろう。


「手当してやってる奴の、どこが悪魔だ。あいつの言うことは、聞いちゃダメだからな」


 ハンカチーフを受け取りながら、チェーザレが注意する。少年は素直に、「わかった」と答えた。


「ジェラルド。これ、頬にあてがってやってくれ。熱を持ってるだろうからな」


 チェーザレから受け取ったハンカチーフは、冬場の水ほどではないが冷えていた。腫れあがった頬に添えると、ピクリとドナの眉が動く。


「痛むか?」


 ドナは、掠れた声で「ちょっとだけ」と答えた。両目を伏せた彼は、涙を零し始める。


「ごめん、なさい。きのう、ちゅうこ、くして、くれたの、に。いうこと、きかなかっ」


「チェーザレから聞いた。生活のためには、君たちが私の助言を聞くことは難しい、と」


「うん。でも、ごめ、なさ。なの、やさ、く、てくれ。ごめ」


 頬が腫れあがっているばかりか、口の端も切れている。動かせば痛いはずだが、ドナは謝ることを止めない。

 ジェラルドは、頭の傷が無いところを選んで、そっと撫でた。


「大丈夫。謝らなくても、大丈夫だ。言いたいことは、わかっている。今は、治すことだけを考えなさい」


 ドナは、更に泣きだしてしまった。謝る代わりに、しゃくり声を上げ続ける。時折、小さな声で「お父さん」と言うのが聞こえた。ジェラルドの服を、右手がぎゅっと掴んでいる。

 ジェラルドは、ドナの右手はそのままにして、頭を撫で続けた。


「良い子だね。ほら、お医者さんが来たぞ。もう、大丈夫だ」


 ドナの仲間が引っ張ってきた医者は、ドナの状態を簡単に確認すると、「ほう」と感心したように声を漏らした。


「応急処置は、完璧に近い。あとは、金次第だが」


 ジェラルドたちを値踏みするように見る医者に、チェーザレはニヤリと笑った。


「金の心配は、無用だ。俺たちが、なんなら、そこに隠れている優男も協力してくれるだろう」


「おや。ばれていましたか」


 物陰から出てきたグライスナーに、ジェラルドは目を丸くした。いつから、そこにいたのだろう。


「お詫びと言ってはなんですが、治療費の件、喜んで協力させていただきましょう。ファルファーラのお2人ほど高給取りでは、ありませんけどね」


「と、いうことだ。とりあえず、これだけ渡しておく。足りなければ、この街の警備兵に『ファルファーラのチェーザレという男に請求してくれ』とでも、言づければいい」


 チェーザレは、上着から小さな袋を取り出すと、医者に持たせた。彼は中身を確認すると、「十分だ」と笑みを見せる。中には、金貨が数枚入っているのだろう。


「では、俺のねぐらに少年を運ぼう。面倒だから、お貴族様は連れて行きたくないが」


 医者はそう言うが、ドナはジェラルドの服を放してくれそうにない。ジェラルドが、ドナを横抱きにして運ぶことになった。

 彼は、娘のエレナよりも頭一つ分ほど身長が高いはずだが、重さはさほど変わらない。彼の体重のほとんどは、骨と薄い筋肉だということが分かる。


「ドナはね。元々は、鍛冶職人の息子だったんだ。でも、7歳の時に、お父さんが死んじゃって。身寄りが無くなって、こっちに移り住んできたんだよ。弟子入りの話もあったんだけど、居づらかったみたい」


 ドナの仲間の1人が、そっと教えてくれた。彼は元々、表通りの隅の方で暮らしていたらしい。

 医者のねぐらは、細い道を何回か折れた先にあった。案内が無ければ、まずたどり着けないだろう。それほど、下町は入り組んでいる。


「あんた、こんなとこに隠れるようにして住んでるのか? 過去に、何をやらかしんたんだ?」


 チェーザレが疑問に思うのも、無理はない。そもそもの話、貴族は連れて行きたくない、と言った時点で、察せられるところはある。


「医者をやっていると、色々とあるものさ。患者にも、いろんな奴がいるしな」


 医者は肩を竦めるだけで、具体的なことは口にしようとしなかった。

 医者のねぐらだという集合住宅に、足を踏み入れる。窓が少ないのか、塞がれているのか。廊下は暗く、細く差す光の中に、埃が舞う様子が見える。階段は段を踏むたびに、ギイギイという頼りない音を立てた。


「奥の寝台に寝かせてくれ」


 医者が、2階の最奥の部屋の戸を開く。部屋の奥には、粗末な寝台があった。

 ジェラルドは部屋の中に入ると、寝台にそっとドナを横たわらせる。彼の右手は、今もジェラルドの服を掴んでいた。


「ドナ。ドナ。聞こえるか? 服を放しなさい」


 彼の耳元で囁くようにして言うが、ドナは小さく首を横に振るばかりだった。


「体調が悪いと、甘えたくなるものだよな」


 同情するチェーザレに、グライスナーは目を丸くした。


「おやおや。チェーザレ殿でも、体調を崩された時には、奥方にお甘えになるので?」


「いいや。ジェラルドに」


「この男は、体調を崩すと、本当に従者をこっちに寄こすんだ。もっとも、近衛隊に入って数年後には、体調を崩すこと自体なくなったが」


 チェーザレとジェラルドの言葉に、グライスナーは目を細めた。


「なるほど。私も、今度体調を崩した時は、バッハ殿に甘えることにいたしましょう」


「あのおっさんは、呼んでも来ないだろ」


 呆れたように、チェーザレは言うが。見舞いには来ないかもしれないが、見舞いの品くらいは送るだろう。ジェラルドには、バッハがグライスナーを見捨てるとは、思えなかった。

 しかし、今はドナの手だ。ジェラルドは、自身の額を、ドナの額に付けた。高い熱が、額に伝わってくる。


「ドナ。良い子だから、放しなさい。このままでは、医者に診てもらえないだろう? ドナのケガが治らなかったら、私は悲しい」


 『悲しい』と言ったところで、ようやくドナの手から力が抜けた。


「よしよし。良い子だね」


 そう言って、額にそっと口づけを落としてやる。


「では、ドナのこと、よろしくお願いします」


 立ち上がって医者と向き合うと、彼は頷いた。貴族を避けているはずなのに、ジェラルドを見返す目は、真摯で力強い。この医者は信頼できる、と思えた。

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