マルゲリータの魔女

Ⅰ.花の大祭の一方で(1)

 まぶたを伏せていても視線を感じる。左の頬が、静電気を帯びているかのように痛い。

 ベネデッドが島流しの刑に処され、ジェラルドが本格的に復帰した頃から、この視線を感じるようになった。ミサの間だけではない。廊下を歩いている時や食堂にいる時など、公共の場に身を置いている時に、視線の主は突如として現れる。

 祈りの時間が終わり、顔を上げて視線の元を辿る。黒髪の男が目を逸らし、立ち去ろうとしていた。

 今日こそ追いかけようとしたところで、右隣りに座っていたジルベルトに声を掛けられた。


「視線は気になるだろうが、今すぐに害があるわけではなさそうだ。追いかけっこは、おまえの片翼が傍にいる時にしたらどうだ?」


 ジルベルトは笑って、片目を瞑る。彼も気が付いていたようだ。視線の主にも。チェーザレが、さぼっていることにも。

 ジェラルドには身を守る術が限られている、ということにも。


「わかりました。しかし、私も一応、護身術は習っているのですが」


「習ってはいるが、武器の取り扱いは、へったくそなんだろう? チェーザレから聞いてるよ。この前も、小刀の扱いでも覚えさせようと持たせたら、危うく副官を刺しそうになって5分で取り上げたってな。どうやったら、あんな飛ばし方をするんだって嘆いていたよ」


「……15分です」


 苦々しく言い返す。

 あの時、ジェラルドが平謝りすると、ロレンツォは「大丈夫ですよ」と笑っていた。しかし、その顔が青ざめていたことは記憶に新しい。

 はっはっはっ、というジルベルトの豪快な笑い声が、礼拝堂の中に響き渡る。ミサに集まっていた人間のほとんどは、既に退室していた。


「そう変わらんじゃないか。俺には理解できんよ。おまえだけは、俺の私室には入れられんな」


 ジャンルカの叔父であるジルベルトは、武器収集家として有名だ。彼の屋敷は隣りの州にあるが、今は隣国に向かったジャンルカの代理として一時的に城に滞在している。


「おそらく、お伺いさせていただく機会は無いかと」


「まじめに返すな。少しは、寂しがれ」


 指先で、額を軽く叩かれる。気さくな人物ということもあるが、年齢が近い分、遠慮が無い。


「まったく。昔から、堅物なところは変わらんな。まあ、いい。それより、これを。俺宛のものに同封されていたよ」


 ジルベルトは懐から封書を取り出すと、ジェラルドに手渡した。ジェラルドに宛てられたもので、裏を返すと封蝋が施されている。紋は、ジャンルカのものだ。検閲には掛けられていないらしく、封蝋をはがされた跡は無い。


「わざわざ、こんなことをしなくても。用があれば、話もするというのに」


 甥の気遣いに、ジルベルトは苦笑いを浮かべた。彼はジャンルカの代理でもなければ、城を訪れることがまず無い。そのためジャンルカは、彼とジェラルドが疎遠である、と考えているのだろう。

 しかし実際には、週に1度は手紙のやり取りをする間柄だ。ジルベルトは、自身が暮らす州の他に2州を任されていて、まめに近況報告が送られてくる。また、彼が知る武器の情報や入手経路も、重要な情報だ。甘いと言われるジェラルドではあるが、立場上、必要があれば戦のことも頭に入れておかなければならない。


「では、俺は部屋に戻る。大事な片翼を守るよう、チェーザレに言っておいてくれ」


 立ち上がったジルベルトは、後ろ手に手を振って、去ってしまう。

 封書を懐にしまったジェラルドも立ち上がって、礼拝堂を出た。すぐに、城を巡回する近衛隊員2名と出くわして、互いに敬礼する。どちらも、飲み会で見知った顔だった。


「お部屋まで、お送りいたしましょうか?」


 尋ねたのは、ロレンツォの弟だった。フィレンツォといって、兄より小柄ではあるが、その分身のこなしが軽い。


「いや。たぶん、その辺にチェーザレがいるだろうから」


 ジェラルドが視線をさまよわせると、廊下を挟んで対面にある柱の陰からチェーザレが手を振った。フィレンツォが、ほっと息を吐く。


「確かに。では、私達は、これで失礼いたします」


 2人は頭を下げると、本来の役目に戻っていった。

 同時に、チェーザレがジェラルドの傍にやって来る。


「遅かったな。おかげで、ジルベルト様のお付きと話が盛り上がってしまったぞ」


「良かったじゃないか。ちょうど私も、ジルベルト様とお話をさせていただいていたんだ。陛下からの封書も、いただいたよ」


「へえ。こちらに気を回していただけるほどには順調、ということだな」


「そうだな」


 隣りを歩く男は、本来なら花の大祭に出席しているはずだった。

 しかし、左肩の負傷により、副官のルッジェーロが代わりに行くことになったのだ。ジルベルトには腕利きのお付きがいるし、ベネデッドの件もあって、一時的に宰相付きとなっている。

 ちなみに、命を下したジャンルカの「嬉しそうだった」という発言を、ジェラルドは聞かなかったことにした。


「まあ、アントーニもいるから、万事問題は無いだろう。いざとなれば、エルネスト様もいらっしゃる」


「警備隊の方は、一時的にグラート様に見ていただいている。前両翼には、頭が下がりっぱなしだ」


 グラートは前代の近衛隊隊長で、チェーザレの元上司にあたる人物だ。警備隊隊長であったベネデッドが失職し、彼が率いていた部隊員も謹慎処分を言い渡された。警備隊は組織の再編成が必要となったが、決定されるまでの間も城下の警備を怠るわけにはいかない。そのため、仮の隊長にグラートを置くことにしたのだった。

 ジェラルドがため息を吐くと、チェーザレは短く笑った。


「グラート様は、『順番だ』と仰っていたぞ。いずれ俺達だって引退はするが、そう簡単には暇を貰えなさそうだ」


「まあ、引退しても必要とされるのは、ありがたいことだが」


 鍵を取り出すと、執務室の扉を開けた。人より早く室内に入ったチェーザレは長椅子に座ると、空いた右隣りを叩いた。ここに座れ、ということらしい。


「仕事の前に、陛下からの手紙を読まないか? たぶん無いとは思うが、俺達に用があってもいけない」


 おそらくチェーザレは、懸念1割、好奇心9割。ただ単に、手紙の内容が気になるだけだろう。

 とはいえ、彼の言うことも、もっともだ。


「わかった。そうしよう」


 ジェラルドはチェーザレの隣りに腰を掛けると、封書を開いた。横から、チェーザレが覗き込んでくる。一緒に読むつもりらしい。


「後で回してやるが?」


「今、読みたいんだよ。ほら、早く開いてくれ」


 背もたれに寄り掛かるチェーザレは、何を言い返しても退く気が無いのだろう。

 ジェラルドはため息を吐くと、手紙を開いた。

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