Ⅰ.左足首だけの幽霊(3)
「で、君はなぜ御者のまね事をしているんだ?」
1度目は、聞き取れなかったようだ。何も反応が無い。揺れる中を苦労しながら小窓に近付き、同じことを大声で告げてやる。
「筒にしろっ」
なお聞きづらいので耳元で話せ、ということらしい。御者は胸元から紙の束を取り出し、後ろ手にこちらに渡してきた。適当な大きさに丸め、口を近づける。3度目を叫んだ。「耳が痛い」との苦情に、「そんなことは知らん」と素っ気なく返してやる。
「チェーザレ。君の管轄は、よほど暇なのか?」
「んなわけないだろう。おまえが抜けた穴のおかげで、こちらまで余計な仕事が舞い込んできているんだ。直接、文句を言いに来たのさ」
「君の抜けた穴は小さいのか?」
「ばかっ。それこそ無しだ。用が済んだら、すぐに戻る」
馬車の速度が、
「陛下とは、何をお話になった?」
「なんだ。結局は、そこが気になって来たのか」
「なんだとは、なんだっ。わざわざ長期療養中であるおまえを呼び寄せたんだぞ。臣下としては、気になって当然だろうがっ」
「個人的な好奇心ではなくて?」
「それもあるっ」
正直な答えに、思わず噴き出した。声を出して笑うのも、久し振りだ。
「耳元で、人を笑うな。気に障る」
「すまん。陛下との会話だが、単なる城下の噂話だ」
「噂話?」
「左の足首だけの幽霊」
「ああ、あれね」
「知っているのか?」
「かなり広まってる。知らん方が珍しい」
チェーザレは手綱を手にしたまま、器用に肩をすくめた。
「俺の部下の中にも、家に出たって奴が数人いる。ニーノも、その1人だ」
「ニーノの所にも出たのか」
ニーノは近衛隊員の1人だ。赤い巻き毛に、そばかすだらけの愛嬌のある顔をしている。彼が嫁を貰った時は、チェーザレと2人で冷やかしにも行った。
「あいつが宿直で留守にしていた時に、出たらしい。翌日、宿直を交代させてほしい、と届け出があった。嫁と子供に泣きつかれたんだとさ」
「それは家族思いだな」
苦笑混じりに言うと、しばらく沈黙の時間ができた。
「悪い。今のおまえには、禁句だった。普段通りに振る舞うから、つい忘れていた」
彼ご自慢の稲穂色の髪を見ながら、らしくないと思った。
もちろん、軽い表面に反して、優しく思いやりのある奴だとは認識している。しかし、幼い頃から軽口を叩き合ってきた仲であるから、どうにも奇妙な感覚だ。そうさせているのは、他でもない自分だった。
「いや、気を遣わせてすまない」
「あほう。今くらい頼れ。ほら、着いたぞ」
俄か御者は、動く気が無いようだ。自分で勝手に開けて降りろ、ということらしい。老人の前とは、随分と態度が違う。若い頃に、散々絞られたせいだろう。
馬車を降りて、前に回り込む。チェーザレとは同じくらいの背丈だが、今は見上げなければ顔が見えない。帽子に収まりきっていない稲穂が、陽の光を弾いて揺れている。
「なかなか新鮮な角度だ」
「確かに。おまえを見下ろす機会も、そうそう無いな」
笑うと、八重歯が覗いた。本人は磨くにくいと不満がっているが女性には受けが良く、昔は友達連中の中で1番の人気者だった。
「おっと、いかん。目的を一つ、忘れるところだった」
昔からそうだが、『君の服の内側は、どうなっているのか』と問い詰めたくなるほど様々な物が出てくる。腰の辺りから取り出されたものは、水色の封書だった。
「なんだ。好奇心以外にも、用があったのか」
「もちろん。ご子息からの手紙だ」
受け取って表を見ると、たどたどしい文字で『お父さんへ』と書いてあった。裏を返すと、およそ息子の趣味とは思えない、かわいらしい花の絵が描かれている。
「これは、イレーネ嬢のものだろうか?」
上からでも見えるように腕を伸ばしてやる。御者は、「ああ」と短く声を上げた。
「彼女の最近の趣味は、花を世話することらしい。親戚連中の中には『下女のやることよ』と非難する人間もいるがな。心根が優しくなって良い」
黄昏色の瞳が和み、柔らかく笑う。かつては無かった、父親の顔だった。
彼の妻もまた、花を愛する女性であることを思い出す。穏やかな空気をまとった人で、たまに無茶をする男にはもったいないほどだ。少し低い身分の出であるため、親戚縁者の中には快く思わない者もいるという。
「今では、ご子息も手伝ってくれるらしい」
「ほう。それはまた、仲良くなったものだ」
「我が愛娘が、少しでもご子息の心に安らぎを与えられれば良いのだが」
10になる息子は、わけあってチェーザレが所有する別荘に預かってもらっている。預けた当初はふさぎ込んでいたが、一つ上のイレーネが傍にいることが幸いしたのだろう。少しずつ、心の傷が回復しているらしい。こちらに手紙を寄こすようになるほどだ。たった数週間で、とても良い方向に向かっていると言える。
「少しなものか。イレーネ嬢には、多大に感謝せねばなるまい」
「おまえに言われると、父としても鼻が高い」
「なんだそれは」
苦笑すると、チェーザレは右の人差し指を横に振った。
「分かってないな。アントーニだって、同じことを言うぞ……そうだ。もうすぐ、アントーニが帰ってくるぞ」
「そうか。たしか、3ヶ月振りだな」
「ああ。彼の手腕をもってしても、かの国の崇高なるじじい共を説得するには骨が折れたようだ。帰ってきたら、どうやって口説き落としたのか、お聞かせ願おうじゃないか」
「そう、だな」
「おいおい、そんな顔するな。せっかくの友の帰還じゃないか。言いたくなきゃ、言わなければ良い。こちらに起こったことを、奴が知っているとは思えん。少なくとも、俺は告げてない。もっとも奴は聡い男だから、薄々勘付くかもしれんが」
こちらを見下ろしているチェーザレの方が、よほど聡い男のように思える。
ジェラルドが頷くと、彼は笑って右の拳を心臓の位置に置いた。
「今もベネデッド指揮下の元、警備隊が動いている。希望を持ち、待て。頼むから、夜な夜な1人で出歩くまねは、いい加減止めてくれよ。我が精鋭なる近衛隊も、あまり人数を避けず残念だが、できる範囲で協力しているしな」
震える右手を心臓の位置に置く。チェーザレは胸を張り、1度強く叩いてから手綱を握りなおした。
「では、また近いうちに会おう」
向きを変えた黒い馬車は、見る間に坂を下りていく。完全に見えなくなると、急に両足に重みを感じた。疲れている。
「近いうち、か」
足を引きずるようにして、2階まで蔦が伸びた家屋へ向かう。扉を押し開くと、室内に鈍い音が響いた。顔をしかめながら、自室へと歩く。まだ日が沈む前ではあるが、これ以上何かをしようという気になれない。
階段を上ることすら億劫になり、結局は応接間の長椅子に倒れ込んだ。机に腕だけを伸ばし、息子からの手紙を置く。なんとか守ったつもりだったが、封筒の角が折れてしまった。
我が物顔で使用している家屋は、ジャンルカの所有物の一つだ。本当の自分の屋敷は、数週間前の火災でほとんどが燃え落ちてしまっている。小物は使用人が持ち出してくれたが、限界がある。持ち出しきれなかった小物と運ぶのに困難な家具の大多数が炎に巻かれ、残った物も水浸しになったり匂いがこびりついたりで使える代物ではなくなっていた。
使用人達は息子と共にチェーザレの元へ行かせ、半端な荷物だけが1階の廊下や応接間に散乱している状態だった。
「疲れた」
ジャンルカが呼び出したのも、チェーザレがおかしなまね事をしてまで昼間に接触を図ったのも、本当の理由は分かっている。彼等は心配し、顔色だけでも窺いたかったのだ。
数週間前の件で多大な世話を焼いてくれている2人の気持ちは、ありがたい。しかし、周りの目もある城の中で以前の通りに振る舞うことは、主に精神面において疲労を促す行為だった。家に籠ってしまえば、片付けようという気さえ起らないほど無気力なのだ。
深く息を吐いて目を閉じると、後頭部の辺りが重力に引かれるような感覚に陥った。すぐに睡魔が、意識をさらっていく。
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