Ⅰ.左足首だけの幽霊(2)
「おお、そういえば。おまえはもう、聞いたか?」
輝きに満ちた翡翠色の瞳の持ち主は、唐突に話を切り出した。香り高い紅茶を挟みながら、互いに口を開かず1刻あまり。沈黙も嫌いではないはずの主も、さすがに気まずくなったとみえる。
しかし、肝心の『何を聞いたか』が抜けてしまっている。尋ねられても、答えようがない。ひどく困ったことに、彼にはよくあるのだ。目を向けると、「ああ、そうか」と相槌を打った。
「夜な夜な出るらしいぞ」
「何が、でございましょう」
2度目は、わざとはぐらかしたに違いない。『何が』を強調してやる。
まだ知らぬ、と主は悟ったらしい。目を細め、小さく笑い声を漏らした。
「左の足首だけの幽霊」
顔の横に、右の親指を人差し指で長さを示される。目と口の間ほどの長さだと言いたいようだが、所詮は従者の誰かからの聞きかじりだろう。実際に見たわけでもないのに得意気に胸を張るところが、妙に微笑ましく思える。
「なぜ左足と分かるか、というとだな」
「くるぶしの向きでございましょう」
すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干す。伏せたまぶたの向こうで、主が半目でこちらを睨んでいることだろう。してやったりだ。悟られぬ程度に笑みを漏らす。
何度も繰り返されるやり取りの一つだ。
「おまえ、かわいくないぞ」
「ありがとうございます」
「褒めておらぬ」
憮然とした表情が、かわいらしい。まだ少年の域を脱しきれていない彼は、こうして2人で向き合い雑談を交わす時などには年齢に見合う顔をする。公私を分ける姿勢は好感を持てるが、公の毅然とした態度は痛々しくも見えた。せめて休憩のひと時くらいは、感情を素直に表す少年でいてほしい。
「申し訳ございません。それで、その幽霊は何をするのでしょう」
「家人に、靴をせがむらしい」
「靴を?」
目の前の人は、腕を組んで頷く。ミモザ色の髪が、柔らかく揺れた。
「靴をちょうだい、と言うらしい。恐怖で怯えたまま答えずにいると、泣きながら去るそうだ」
「もし、靴を与えたら?」
「知らぬ。いまだ靴をくれてやった者がおらぬ。ここに出たら、自らくれてやるというのに残念だ」
胸を反らせ、勢いよく鼻息を吐き出す。そうだろうと思う反面、この人も実は怖がりではないかとも思った。
「城下の家を転々としているそうだが、おまえの所には出ないのか?」
今度は椅子から身を乗り出し、興奮から目を大きく開いている。「出る」と答えれば、「今日から泊まりにいこう」と言い出しかねない。
「私は幽霊ではないので、分かりかねます。町はずれに転居いたしましたので、数ヶ月過ぎても来ないかもしれません」
途端に、目の前の少年の顔が暗くなった。
「すまぬ。辛いことを言わせた」
「いいえ。あなたが、そのような顔をされる必要はありません。個人のことです。あなたに」
「関係なら、大いにあるぞっ。家族のように思っているのだっ」
立ち上がった彼は肩で息をし、必死の形相だった。嬉しくもあり、ありがたくもあり、頭が下がる思いもする。
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
同じように立ち上がり、形の良い頭を撫でる。「子ども扱いするな」と、小声で怒られた。
「まあ、そういうわけだから、落ち着いたら戻ってこい。おまえがいないと調子が狂う」
金色の懐中時計を取り出し、時間を確認する。そろそろ公私を入れ替える時間のようだ。まるで聖職者の法衣のように白い裾が翻る。
「仕事を山のように残しておいてやる。今から覚悟せよ」
奥の間へと足早に歩いていく彼に、侍女や従者が近づく。次々と指示を出す主の背中は、優れた政治家に見えるのだが。
「ああ、そうだ。万が一にでも、おまえの所に幽霊が出たら教えろよ」
振り返り、笑いながら告げる顔は、やはり17歳を迎えたばかりの少年のものだった。恭しく頭を下げると、今度こそ高らかに響く足音が遠ざかっていく。
「ジェラルド様。外に馬車をご用意いたしております。どうぞ、こちらへ」
横から声を掛けてきた老人に従い、入城口へと歩く。縦にも横にも広い廊下であるが、通りすがった者はすべてこちらに頭を下げていく。主の横に並び立てば当然である行為も、いざ1人になった時にもやられると落ち着かない気分にさせられ好きではなかった。もっとも、自分は彼等の上司という立場だ。彼等の行動は間違いではない。ただ、今は名ばかりの長期療養中ということも手伝って、常以上に後ろめたいのだ。
吹き抜けになっているホールを抜け、建物から出て白い階段を下りる。案内された先には、黒塗りの4頭立ての馬車が待っていた。身分を考慮されてのことだろうが、さすがに帰宅だけに使われるには立派が過ぎないだろうか。
御者が開く戸の中へ、ため息混じりに乗り込む。内装は、いちいち質の良い素材が使われている。壁や天井は、細かい彫刻が施されている。先代の趣味の一つだ。
「ジェラルド様」
外から呼ばれ、顔を向ける。短くはない付き合いの老人は、白髪に皺だらけの顔でありながらも背筋だけは真っ直ぐに張られた糸のようだ。一線を退く前は、有能な先輩の1人だった。彼に『様』付けで呼ばれるのは、面映ゆいものがある。
「ジャンルカ様と再び並び立たれる日を、心よりお待ちいたしております」
陰りの無い青い瞳に頷くと、戸が静かに閉められた。頭を深く下げた老人は、すぐに後方へと消えていく。象牙色の城を振り返り見上げたが、門を出た辺りで顔を進行方向に戻した。どうにも馬の足音がうるさいと思えば、前の小窓の玻璃が無い。わざと抜かれたのだろうか。犯人は、目深に被った黒帽子から、少しだけ表情を覗かせた男だろう。
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