第24話 リリィ・オブ・ザ・ヴァレー
石井家での3日はあっという間にすぎた。シャルは我儘を言わず、控えめで、家族に溶け込んでいた。あまりにも主張が希薄なので、樹里の母親が掃除機をぶつけてしまったり、父親がつい誤ってシャルにビールを渡してしまったりすることさえあった。それで何もしていないかというとそうでもなく、掃除を習って手伝いをしたり、食事の支度のときには戦力になったりしていた。樹里の母親にとっては娘が1人増えたような感覚だった。いや、樹里が男のようなので初めての娘といえるかもしれない。可愛い女の子がカルガモの子供のように自分の後ろをついて回り、見よう見まねで家事をする姿はほほえましいものだった。
「シャーロットちゃん、宿題は進んでいるの」
サンルームで一緒に洗濯物を干しているときだった。
「はい。苦手な分野、樹里が見てくれます。でも」
「なに」
「わたしは二学期を待たず、帰国するかもしれません。1日目の夜、ママから電話きました。エアチケットが取れれば、帰ります。なるべく日本の学期に間に合わせるためです。樹里と学年が変わるのは避けたいです」
「色々と大変だね」
シャルは寂しげに笑った。しかし、少しのしたたかさを覚えた彼女は冗談を返した。
「お父さんと弟さんのパンツ、見慣れました。干すこと、できます」
「そういや、あんた最初は虫でも触るような手つきだったね」
お母さんが豪快に笑う。
「さあ、ここはもう済むから、お家に戻る準備をしなさいな。私たち家族はあんたの受け入れを決めたよ。そこは安心してね」
「ありがとうございます」
「あんたの日本でのお母さんだと思ってくれていいよ。娘ができたみたいで、本当に楽しかった」
「ハグ、してもいいですか」
「いいよ。こちらこそさせてちょうだい」
シャルと樹里の母親はきつく抱き合った。光に満ちたサンルームで、2人の姿が重なった。
エアチケットが取れたらしいことを、樹里はその晩、通話で知った。
「3人一緒は無理だったから、パパが先に帰って様々な手続きを始めて、私とママは後から行く」
「シャル、帰っちゃうんだね」
「大丈夫よ、私はまた戻ってくる。あなたに逢うため」
「あれ? シャルじゃない感じ。シャリーかな」
「そうよ。家族で難しいお話をしたから、私がいる。ありがとう。あなたのご家族にも、お向かいのご夫婦にも、伝えておいてもらえると嬉しい」
「私たち何もしていないよ。普段通りにしていただけ」
「それが私たちにとっては特別だった」
「私たちってシャーリー達のこと?」
「そう」
人格について説明はなされなかった。
「ねえ、あなたたちが1つになったら、シャルは消えてしまうの?」
「わからない。シャルが最後まで残るかもしれないし、統合した新しい人格が、誕生から先の人生を歩むのかもしれない」
「シャルの成分、残してほしいな」
スマートフォンの向こうで、シャーリーは少し笑ったようだった。
「シャーリーとママの出発はいつなの?」
「2週間後」
「それまでまた家に来なよ」
「駄目。いま私は家族とわずかに戦っている。負けるわけにはいかない。そしてこれをあなたに見られたくない」
「難しいんだね。じゃあ出発のとき、空港へ見送りに行くのも駄目?」
「いいわ。シャルが喜ぶ。私も嬉しいと感じる」
「シャーリー、シャル。ううん『シャーロット』……好きだよ。あなたに早く会いたい」
シャーリーの沈黙が流れる。言葉に詰まっているようだ。
「あなたは私たちの心をとても上手く掴む。シャルが出てきてしまいそう。通話を切る」
「どうして、どうしてシャルと話しちゃいけないの。出てきてもいいじゃない」
「シャルではパパとママに負けてしまうから。さようなら」
別れを告げるシャーリーの声は静謐な声音だった。何も音がしなくなったスマートフォンを片手に、樹里は考える。家族と戦うとはどういうことだろう。樹里には経験のない環境であり、そして悲しいことだった。
シャーロットは石井家とお向かいさん夫婦の優しく『一般的な』家庭に触れて、考え方の根底が変わったのだった。家族の負の連鎖を終わらせたくなった。それは自分にしかできない、自分のためのことだと。
リリィ・オブ・ザ・ヴァレー。スズランの花。それは彼女の戦いと願いの象徴であり、勇気の源だった。
樹里と通話を終わらせたシャーリーは、電気をつけていない薄闇の中で、白い花に視線を落とした。カーテンを閉めた窓から差し込む夜の光が、少女の華奢なシルエットを室内に描く。空港できっとこの花の意味を樹里に伝えよう。彼女はそう考えた。
2週間後、国際空港。
石井家の面々は出発ロビーで待機しているベイリー母娘に会っていた。シャルは馴染んでいたが、ベイリー夫人と樹里以外の石井家族は初対面だ。
「先日は娘を預かっていただいて感謝しております。話は聞いています。娘はとても嬉しそうでした」
「とくにこれといって感謝してもらうことはしていないんですよ。僕たち家族も、シャーロットさんと過ごせて楽しかった」
樹里の父親が代表して夫人と話す。夫人はどこかが痛むような表情をしていた。よく見なければ分からない程度に。それは威風堂々とした夫人を知っている樹里だけが気付いた。シャーリーが言っていた家族との戦いの傷だろうか。シャルの家は、樹里から見て独特な雰囲気がある。もし喧嘩をしたのだとすると精神的に壮絶なものだろう。
「シャル、いいわよ。樹里とお話していなさい」
「はい」
樹里は喜んでシャルを迎え、抱きしめた。
「おっと、ごめんハグしちゃった」
「いいの。樹里大好き」
「ちょっとの間、お別れだね」
「うん。わたし戻ってくる、逢いにくる」
シャーリーと同じことを繰り返して、シャルは身体を離し、ほほえんだ。
「あのね、わたしがいない間、わたしの代わりになるようにスズランの花をプレゼントしようとしたの。でもあの子は1週間で駄目になってしまうからやめるね。すぐに代えが必要になるものはもういいの。樹里、あなたの心にいるわたしを忘れないで。わたしもずっとあなたを考える」
「もちろんだよ、シャル。そう、1週間でしなびちゃうお花なんて別れには悲しすぎる。ナイス判断。シャルは少し変わったね」
幼く可愛らしいほほえみを見せていたシャルの表情が変わる。儚さに神秘的な芯のある少女が頷いた。
「そう、あの子は変わった。あなたたちのおかげ。約束していたことを言うわ。私たちにとってのスズランの意味」
シャーリーは樹里の手を取り、自分の胸へ導いた。
「リリィ・オブ・ザ・ヴァレー。日本語でスズランという植物の花言葉は、幸せの再来。オリジナル人格『シャーロット』が、甘く優しく愛されていた幼かった頃の幸せを取り戻す。樹里、私を見ていて。シャルがリリィを見て、ただ願っていただけのそれを、私は前に進むことで手に入れてみせる。いままでの人生のやり直しだっていとわない。そして『1人の人間』としてあなたに愛されたい」
「シャーロット……」
「きっと、ずっと一緒にいよう樹里?」
首を傾げた、はちみつ色の瞳が細められる。それは幼く、甘く、それでいて芯があった。
「そうだね、幸せになろう。約束する」
「シャーロット、そろそろ行くわよ」
ベイリー夫人が声を掛ける。亜麻色の女の子はきちんとした足取りで荷物を持った。
国際空港にはたくさんのジャンボジェットが離着陸していた。どれがベイリー母娘の乗った機体なのかはわからない。
「行ってしまったね」
樹里の母親が大きなガラス張りの空を見上げながら言う。
「また戻ってくるんだろう? それまでの辛抱じゃないか。さあ、帰ろう」
「姉ちゃん、行くって」
樹里はまだロビーの窓際に立ち尽くしていた。
(シャーロット、待っている。必ず幸せになろうね)
よく晴れた青い空に浮かぶ鈴なりの雲が、あのスズランの花に見えたのだった。
リリィ・オブ・ザ・ヴァレー 三沢なお @DeboraAyane
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