第8話 ふたりでの登校

 シャルと樹里の家からの最寄り駅は2駅違いだった。シャルのほうが学校から遠い。ふたりは比較的すいている、各駅停車を利用することにした。通学時間は長くなってしまうが、この際、仕方がない。時刻と、乗る車両を決める。

「スマートフォンを手にして乗車するんだよ。それで、何かあったらすぐに私に連絡して」

 シャルは痴漢被害を周囲に知らせるアプリケーションの使用を嫌がった。あくまでも我慢するつもりらしい。樹里には分からなかった。泣くほど嫌な思いをしているのに、我慢する理由と性格が。

 

 シャルのこれらの傾向は母親譲りだった。アルコール依存症の夫からの暴力に、ひたすらに貝のようになっていた母。性的なDVもあったといまのシャルには理解できる。とにかく頭が真っ白になり、身体が固まってしまうのだ。それから、問題を周囲に隠す癖も母親譲りだ。あの幼いとき、シャーロットを『いないことにして』自分だけシェルターに逃げ込んだのも、シャルの存在が夫婦間の問題であったことが、いま思えば想像できた。シャルの本当の父も暴力を振るう男だったはずだ。古い記憶に残っている。母はそういう運命の元に生まれたのだ。そして、シャーロットも。

 

「シャルがお友達と登校するのは初めてね。その子のために登校時間をずらすなんて、とても仲がいいのね。ママは楽しみだわ。どんな子なの。あら、聞きすぎかしら」

 もともと、車の国際免許を取得していたベイリー夫人は、暑さに参ってしまう娘を毎日、駅まで送迎していた。夫人は数々のカルチャースクールに通って、広く交流を深めていた。シャルとは正反対である。

「少し男の子みたいな人なの。背が高くて、とっても快活」

 シャルは英語で答えた。

「そうなの。よかったら家へ遊びに連れてらっしゃい。そのときは事前に教えてね。ママ、お菓子を作るから」

「うん」

「男の子みたい、ね。シャル、ボーイフレンドはできたの? それもママは楽しみにしているわ。内緒にしたいならいいけど」

 車が駅のロータリーに着く。ドアを開けると、むっとした熱気が立ち上がる。

「じゃあ行ってきます、ママ」

「いってらっしゃい、可愛いシャル。愛しているわ」

 始発駅に近いシャルの場合、各駅停車に乗ってみると、なるほどまだ人と人の間に余裕があるのだった。座席はすべて埋まっている。鞄を抱えて眠る、シャルには不思議な人たちが、いつも通りいた。2駅が過ぎ、約束していた車両に、樹里が乗り込んでくる。やはり白いブラウスに、緩めた首元とスラックス姿だ。

「おはよう、シャーロットさん」

「おはようございます、樹里さん」

 どうも固いと思いながらも、樹里は急に距離を詰めて逃げられるのを用心し、馴れ馴れしくするのは、やめにした。

「車両の真ん中あたりに陣取ろう。痴漢って、すぐに逃げることのできるドア近くにいることが多いんだって」

 昨晩、インターネットで調べてみたことを教える。

「はい」

 シャルは襟ぐりの詰まった長袖だった。学校のエアコンが冷えるのと、日焼けに弱く、ひどく赤くなって痛むからだ。下は落ち着いた色のワイドパンツ。とくに定めているわけではないが、シャルも毎日同じようなスタイルが多かった。

 樹里は電車のつり革をつかんで揺られながら、話題を探した。

「昨日なにかテレビ観た?」

 スマートフォンの操作があれだけ怪しかったシャルだ。SNSや動画サイトに詳しいと思えなかった。

「テレビはよくみません。花を作っていました。フラワーアレンジメント」

「ああ、フラワーアレンジメントね。びっくりした。造花をひとつ0.3円で作る仕事でもしているのかと思った」

「そういう仕事、ありますか」

「いや、適当に言った」

「わたし、学校がおわると、じかんをもてあまします。そのような仕事、あればよかった」

「あるにはあるよ。でも材料を運んで、完成品を納品するための車が必要だと思う」

 帰宅後は暇をしている。これは樹里にとっていい情報だった。暇ならばスマートフォンでやり取りしてみたい。だが時期尚早か。隣の亜麻色は真っ直ぐに窓の外を見つめていた。おはようの挨拶以降、目が合っていない。

 電車が進むにつれ、中はだんだんと混んできた。シャルと樹里の距離はなくなって、身体が触れ合いそうだった。樹里は隣に注意を払いながら、痴漢なんてくるなよと、たたずまいで牽制した。降車駅に着く。人をかき分けるのが苦手なシャルの手首をとって、樹里はホームへ導いた。エスカレーターに乗り、ひと息つく。

「大丈夫だった?」

「はい。わたしは無事でした。ずっと久しぶりのことです」

 シャルは嬉しそうだった。はにかみながら、ほほえんでいる。

(こんな表情をするんだ)

 笑顔のシャルは、普段の薄幸そうな儚い雰囲気と違い、人好きのする感じの女の子だった。

 樹里は魅了され、また時が止まるような思いをした。




「大人しくて、抵抗しそうにない感じの服装より、派手な格好のほうが、狙われにくいみたいだよ」

 ある日の昼休み。シャルと樹里は、中庭で昼食をとりながら話していた。樹里は焼き肉が入った大きなおにぎりにかぶりつきながら言った。

「ほら、あの集団。ショップで買ったスポーティな制服もどきに、短めのスカート。なんか可愛くない? シャルはいかにも大人しそうな女子大生に見える」

「そう、ですか……」

 視線の先には、春にシャルの肩を気安く叩いた明るい女子生徒が、男女混合グループでにぎやかにしている。彼女たちは主に、白のメッシュポロシャツと、短くしたチェックのプリーツスカートを着用していた。

「真似してみる? 通販サイト教えようか」

「お願いします、樹里」

 樹里はいつの間にか呼び捨てとなった、互いの関係に満足していた。

「それにしても、そんな小さい、なんていうの? わからないけどパンのかけらでお腹は足りるの。わたしのおにぎり少しあげる」

 シャルは小さなツナメルトサンドを齧っていた。目の前に、樹里から差し出された、口をつけていない部分の焼き肉おにぎりが迫る。

「ありがとう?」

 シャルが小さな口で、樹里のようにおにぎりを頬張る。咀嚼は長く、飲み込むまでに時間がかかった。シャルはなにやら笑っていた。

「どう。おいしい?」

「It’s a little too salty.」

「え、なんだって」

「すこし、しょっぱいです」

「どうして笑っているの」

「わたしのはじめて、うめぼしを食べたことを思い出しました。おせんべいも、おつけものも、しょっぱいです。おどろきました。ママはがまんできなくて、ごみにしました」

「じゃあシャルのも少し、ってその小ささじゃ無理か」

「いいですよ、あげます。こちら側」

 シャルはもともと小さなサンドイッチを、もらったおにぎりと同程度に分け、樹里に渡した。

「なにこれ。おいしい! なんの香りだろう。すっごい爽やか」

「セロリとバジルです。わたし作りました」

「やだ、この子、料理できるの? 惚れる。ところでどうでもいいんだけど、日本語で無理がなく勉強できるのに、しゃべり言葉は片言なのって、なんで」

「わたしのくせ。わたしの見た目、外国人だから、片言を話して従順にしていれば、多くの日本人ゆるしてくれます。わたし、不器用だから、処世術です」

「なるほど」

 しかし従順にすぎるところもある。痴漢の件もそうだ。顔の可愛い男子高生のような樹里が、いつも側に乗車していることで被害は減っていたが、なくなったわけではない。今朝も指の背で胸を押されていた。樹里が素早く指をつかんで捻挫させ、悲鳴をあげた中年男性をつかまえて駅員に引き渡したところだ。

「ね、登校服のこと、本気で考えてみてね」

 樹里は念を押した。


「まあシャル、あなた、短いスカートをはくの?」

 樹里が転送してくれた公式オンライン通販サイトと、いきすぎではない着崩しかたの参考画像を見たベイリー夫人は、卒倒しそうになった。これでは男を誘っている女の子だ。

「ママ、ずっと言えなかったけど、私はよく電車で身体に触られているの。いつもの、あの格好でも。そうしたら友達が、大人しい服装はかえって標的になりやすいって教えてくれたの」

「触られているんですって? とんでもないわ。シャル、どうして黙っていたの。また人形になってしまうの? ママを信頼して。あなたのためになる努力をするわ」

「じゃあ試すだけ試させて。日本風に垢ぬければ、なにか変わるかもしれない」

 シャルは真剣だった。真剣であり、夫人に強く意見したのも初めてのことだった。

「わかったわ。決してショーツは見えないようにするのよ。スパッツか、なにかをはいてね。上も下着が透けてはだめよ」

「分かっている、ママ。理解してくれてありがとう」

 そうしてベイリー母娘は、ふたりで制服を選んだのだった。

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