第9話 戦闘服
3日後。
「どうなの、シャル」
ベイリー夫人が、娘の部屋の前で声をかける。
「入って、ママ」
鈴が鳴るような声のあと、ドアが開く。シャルは母を招き入れ、姿見のところへ立った。
「シャル……」
夫人はやはりショックだった。シャルは白く細い腕を肘のあたりまで出し、スカートは膝よりずいぶん、これは夫人の印象だったが、短かった。清楚なブラウスの首元は緩められ、リボンタイも中途半端にぶら下がっていた。
「シャル、あなた」
――これでは乱暴されたみたいだわ。
何も知らない夫人は、常識に基づいて口をつぐんだ。
「学校にいる、朗らかで華やかな子たちの真似をしてみたの。どう?」
「そう、そうね。ママもいまのあなたみたいな子をよく見かけるわ。いいんじゃないかしら、あなたが満足なら。でも正直に言うと、ママの好みとは違うわね」
「ママ……」
シャルの表情がくもる。夫人は慌てた。
「違うのよ、シャル。あなたの意思は尊重するわ。それに痴漢と戦おうとする姿勢は素晴らしいものよ。その格好が、日本において誘っている女の子ではないのなら、悪くないと思うわ」
シャルはまだ、自信なさげに、弱気な表情をしている。
「シャル、あなたが私に強く言えたことを、とても誇りに思う。小さいロッテはここまで成長したのね」
もう一度、姿見に映る自分を見たシャルが、ウエストをひと折り下げた。その分、スカート丈が長くなる。シャルは満足した。
「じゃあ朝食にしましょう」
食卓にベイリー氏の姿はない。なにやら日本縦断旅行をすると言って出て行ったきりだ。
シャルの食べ物はマフィン1個だった。いまなら、なんとか20分で食べられる。それからサプリメントを飲んで終わりだ。夫人はブロッコリーとオレンジのスムージーで済ませた。
「じゃあ、行きましょう」
シャルと夫人は車に乗った。
途端に、スマートフォンがメッセージの通知音を鳴らし、シャルは操作した。樹里からだ。
――ごめんシャル。お腹を壊した。トイレばかり行っている。しばらく待てるかな。それとも先に登校する?
――まっています。
初めての服を着て、ひとりで乗る電車は怖かった。
「なにかあったの、シャル」
「いつも一緒に登校する友達が腹痛だって。それで、わたしひとりで行くか聞かれたの」
「ひとりで行くの?」
「ううん、お腹の調子が落ち着くまで待っていることにする」
「シャル、今日のあなたは戦闘服でしょう? 挑戦してみなさい。本当に効果があるか。うつむいちゃ駄目よ、気を引き締めるの。報復するぞ、って」
「でも……」
「ママの意見をはねつけた、防護服よ。あなたが毅然としていれば、きっと、いいえ絶対に大丈夫よ」
「なら、頑張ってみる」
シャルはスマートフォンを操作した。
――樹里、ごめんなさい。やっぱり、ひとりで行ってみます。戦闘服、届いた。今日は着ました。効果を見ます。
――制服もどきが来たんだね。私も根性で、お腹を治して、学校に行くよ。すごく見たい。
スタンプとともに送られるメッセージ。それは勇気づけられるものだった。
(樹里がこの服を見たいって言った。嬉しい)
シャルは宣言した。
「うつむかず、毅然と、やられたら報復する」
「そうよ、シャル。女性も戦わなくちゃ」
送りの車を降り、堂々と駅構内へ入り、シャルはいつも通りの各駅停車に乗った。
(毅然と、戦うように)
シャルは心の中で唱えながら、つり革につかまった。
「わあ、どうしたの。シャーロット、可愛い。イメージチェンジ?」
シャルは無事に学校へ到着していた。服装より、どちらかといえば怒っているような彼女の鬼気迫る雰囲気がそうさせたのだが、それはこの際どちらでもいい。とにかく、この服装は勝利したのだ。
「戦ってみました」
「なにと? それで、勝てたの」
「はい」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
ありがとうの言葉は、樹里に多く使ってきたおかげで、悪い印象が払拭されていた。それで、お礼を言う亜麻色は、可愛らしくほほえんでいた。
教室内はみんな、シャルを注視していた。いかにも上品で大人しかった孤高の少女が、急に垢抜けたのだ。しかも日本人とまるで同じ格好をしてみると、手足が長く、胸は丸く豊かで、ヒップもスカートの下で蠱惑的なふくらみをしているのがわかった。身長や骨格は、ごく幼い頃の栄養不足と、続いている少食が原因でこぢんまりとしていたが、それがまたよかった。小柄で、出るところは出ている少女。
「今日は石井さんと一緒じゃないの?」
「石井さん、お腹を痛くしました。遅刻します」
「そうなんだ。じゃあこっちにおいでよ」
シャルは明るい女の子に連れていかれた。男女混合グループ。椅子が用意され、座ると、途端に話しかけられた。
「見違えたよ。下の名前で呼んでいいよな。よく似合っている、シャーロット」
「石井さんとはシャルと樹里って呼び合っているよね。俺たちもそうしていい?」
本当は樹里との特別にしたかったが、彼らは強引だった。
「普段もモデルさんみたいできれいだったけど、今は私たちと近くに感じる。親近感ってやつ?」
「ねえちょっと待って、写真撮らせて。本当にお人形さんみたい」
――人形。
「わたし、人形ですか。どこが変ですか。直します」
「違うよ、ほめているの。で、写真撮っていいの」
「写真は、魂とられると、日本でならいました。いけないです」
「誰が教えたのよ」
少年少女たちは爆笑した。
「よかったら放課後、樹里ちゃんとシャルも足して遊びに行こうよ。クレープ食べたい」
「お前、毎日クレープだな。太るぞ」
「はい、セクハラ」
「なにが」
「なによ」
そのかたわらで、ひとりの少女がため息をつく。
「はぁ。やっぱり、シャーロットみたいに、小さいパンで満足しないとその体型になれないのかな」
「わたしは、やせすぎです。健康になりたい。樹里は言いました。『男になめられる』。なめるは舌でなめる違いますよね。みくびるが正しいですか」
「ああ。なんか言われてみれば痴漢に遭いそう」
「それで今日はせんとうふく、着ました。派手で明るい印象の子、狙われにくい」
「ていうか、雰囲気の問題だと思うけどね。でも可愛いよ」
その頃、樹里は学校に向かって歩いていた。じりじりと暑い。セミ爆弾が落ちていたので、腹いせに蹴った。
シャルはひとりで無事だったろうか。ちゃんと学校にたどり着けた? 過保護なのは分かっていたが、樹里の中ではすっかり『私のシャル』なのだった。途中のコンビニエンスストアで軽いパンを買う。今日の腹具合には、いつもの重いおにぎりはつらかった。そのままゆっくり歩いていくと、一限目の終わりに教室へ着いた。
シャルはクラスでいちばん派手なグループに対して、笑顔を見せていた。
(シャル?)
樹里は全身の力が抜けるようだった。シャルが、自分以外の、しかも苦手としているはずの騒々しいグループ相手に笑っている。
「樹里、きました」
シャルがいち早く気がついて、声を上げる。樹里は自分の心に反して、教室から走って出て行ってしまった。
(なんで、なんで私は逃げているの)
「樹里!」
シャルの声が聞こえる。
樹里は気持ちがぐちゃぐちゃになった。ぐちゃぐちゃのまま、走りに走った。
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