第10話 執着

「樹里! 待って。ねえ樹里! わたしを置いていかないで!」

 シャルは流暢な日本語のイントネーションで叫びながら、樹里を追いかけた。休み時間の生徒たちがシャルを避け、驚いたり、好奇の目で見たりする。樹里との距離は広がるばかりだ。黒いベリーショートの後ろ姿は、階段を駆け降り、渡り廊下に消える。亜麻色は泣きそうになりながら、とにかく走った。

「樹里……お願い。いないいないのおまじないは、もういらないの」

 渡り廊下に出る。運動が不得意なシャルは息も絶え絶えだ。ほとんど足を引きずりながら、渡り廊下の端を曲がった。

 樹里はそこにいた。シャルに背を向けて。

「樹里、ここにいたのね。よかった。――わたしはあなたが大事なの。わたしを捨てないで。ひとりはもう嫌。あなたを知ってから、もうひとりは耐えられない。悪いことをしたなら、謝る。お願い、言って。なんでも聞くから」

「……日本語、ちゃんとしゃべれるんだね」

「樹里だけ、特別。他の人には馬鹿だと思われたい」

「自分の価値をわざと下げるものじゃないよ」

「いいの。わたしは……ごめんなさい、まだ樹里にも、話せない」

「なにかつらいことがあったのは、雰囲気で分かるよ。話せなんて言わない。私もシャルが好き」

「樹里……近づいてもいい?」

「うん」

 亜麻色が歩く上履きの音。樹里はシャルに向き直った。シャルは濡れた瞳で、樹里に右手を伸ばした。それをベリーショートの少女は受け入れ、手を取った。白い手は小刻みに震えていた。

「ごめん。本当に置いていかれると思ったんだね。逆なの。私がシャルから、いらないって言われた気がしたんだ。私以外の子たちと楽しそうにしているから。もう私の籠からいなくなってしまったように感じた」

「樹里の籠?」

「勝手な押し付けなんだ。私だけに懐いてくれるシャルがすごく可愛かった。でもシャルはひとりの人間だよね。悪かった」

 樹里はしばし、自分の感情をまとめた。

「たぶん、やきもちなんだ、これは。シャルを取られたくない。はっきり言うよ? 友達としてやきもちを焼いているのか、恋なのか、私には分からない。これが恋だったら、シャルはどうする?」

 恋は、シャルには分からない感情だった。

「じゃあわたしも、はっきり言うね。わたしは樹里に依存していると思う。普通じゃない育ちかたをしてきたの。樹里の感情がどうあろうと、あなたが離れてしまったら、わたしは人形に逆戻りする」

「シャル……」

 普通じゃない育ちかたとは、なんだろう。依存なら、むしろしてほしいくらいだった。

「人形って、私と仲良くなる前の状態? あれは駄目だよ、もったいないから。シャル、自信を持って。シャルは素敵な女の子だよ」

「ありがとう樹里」

 シャルは安堵したようだった。繋いだ手を少し振りながら、息を整えている。それから口を開いた。

「あのね、あの子たちから、放課後、樹里も一緒にクレープ食べたいって誘われているの。どうしたらいいと思う?」

「シャルはどうしたいの。わたしはシャルに任せるよ」

「日本の学生の街を見てみたい。樹里、わたしと居て」

「お安い御用で」

 樹里の手を握るシャルの力が強くなり、それを樹里は自分の胸へあてた。柔らかな感触がする。シャルは照れなかった。

「樹里、わたしの友達」

「可愛いシャル。その制服もどき、よく似合っている」

「そう思う? ママは誘っている女の子だって言ったの」

「そうなの、私は誘われちゃうかな。そういえば今朝の登校は大丈夫だったの?」

「うん。戦闘服、とてもいい感じ」

「よかったね」

 シャルと樹里は互いにはにかんで笑った。


 放課後、約束通りにシャルと樹里は、派手なグループと一緒に街へ繰り出した。

 プチプライスコスメや古着屋を冷やかしたあと、目的のクレープ屋へ向かう。樹里はシャルがはぐれないように、ずっと手を繋ぎ、人混み酔いをしていないか気を使っていた。

「なんか妹を連れたお姉ちゃんって感じだな」

「そう? ナイトとお姫さまって気がする」

 行列に並びながらの会話。クレープ屋の前には、信じられないほどの行列ができていた。樹里は炎天下のシャルをノートであおいでやり、亜麻色の少女は日焼け止めクリームを念入りに塗り直していた。日焼けに弱いのだ。

「やっぱ姫と従者か」

「ふたりって付き合っているの?」

「はあ?」

 素っ頓狂な声を上げたのは樹里だった。

「だって、シャーロットのことずっと守っている姿、イケメンだった」

「本気かよ。いい女がふたりくっついたら、男はどうすればいいんだ?」

「樹里ってレズなのかな」

 違うとも言い切れないので、ベリーショートの少女は答えに窮した。彼女は心のどこかで、いつも自分のセクシャリティに悩んでいた。

「教えてよ、付き合っているの」

「もし付き合っていたら、なんなんだよ」

 思いがけず強い口調になってしまい、樹里はしまったと感じた。

「こわっ、本気だわ、これ」

「ねえシャル、本当なの」

「樹里、わたしのもの。わたしも、樹里のものです」

 他意のない言葉だった。

「きゃー!」

 女子たちは黄色い声を上げる。男子は少し引いていた。

「なんか生々しいな……こいつらがね」

「さっきのシャルの言葉は、シャルなりの表現だ。付き合っているかどうかは、私も知らない」

「どこまで進んだの? もしかしてもう、えっち済み?」

「そういうのが定義なら、私とシャルはただの友達だよ。何もない」

「なんだ、つまらない」

「つうか俺、リアルに想像しちまったんだけど。どうしてくれるんだよ」

「はい、セクハラ。通報」

「友達なら、ほら、あんた告白をすれば。好きなんでしょ」

「馬鹿。余計なことを言うな」

 好きとは、どちらのことだろう。シャルはもちろん、樹里も断るつもりでいた。樹里は男子生徒と付き合ったことが2回あるが、どちらもピンとこなかった。男子に悪いところがあったわけじゃない。恋心を向けられるのも、身体的接触をするのも、なにかピースがはまらないのだ。

 だがシャルに対する気持ちは違う。生まれて初めて、激しい嫉妬心を抱いた。頼られたい、独り占めにしたい、必要だと思われたい。これは恋なのだろうか。それとも幼いジェラシーと独占欲?

 クレープの順番がやってきた。先行していた派手なグループが次々にクレープを手にする。シャルはメニューの多さと、クレープの大きさに戸惑っているようだった。

「大丈夫? メニュー決められる?」

「……できません。樹里おねがい。小さいの、ほしいです」

「いらっしゃいませ。ご注文をおうかがいいたします」

 店員が明るく高い声で言う。シャルは焦って、視線で樹里に縋った。ベリーショートが場所を代わる。

「この、ラップドクレープってどれくらいのサイズですか」

「お手に取りやすい、ひと口サイズとなっております」

「じゃあそれのチョコレートをひとつと、普通のバナナ生クリームをひとつお願いします」

「かしこまりました」

「樹里、ありがとう」

「どういたしまして」

「やっぱり保護者と子供かな」

 グループはシャルと樹里の様子をよく観察していた。


 シャルの食べる速度は、人の3倍は遅い。それで、みんなが大きなクレープを食べ終わるころ、ようやくあとひと口というところまで来ていた。

「ねえシャーロットさ、それわざとやっているの」

「どれですか」

「小鳥みたいな食べかた。全然進まないじゃない。まずいわけ?」

「おいしいです。ごめんなさい。わたしは、食べるのとてもおそい」

「なにいきなり怒ってんだお前」

「シャーロットって可愛子ぶっていると思って」

「実際に可愛いからいいじゃない、どうしたの」

 教室で、シャルの細さを羨んでいた女の子だ。

「そんな小さいクレープを両手で持って、ちまちま、ちまちま。見ていてうっとうしい」

「おいおい、喧嘩売るなよ」

「すみません、あなたを不快にしました」

 シャルは残りのラップドクレープを見た。まだひと口では食べられない。すると、横から樹里の手が伸びて、残りを口に放り込んだ。すぐに飲み下す。シャルにはできない早さで。

「人それぞれあるでしょ。これがシャルのスピードなんだよ」

「シャルって他のことも、とろいからね」

「だな。とろくて運動音痴で食べるのも遅いのがシャルだ」

「なによ、それ。あたしが悪いみたいじゃない」

「うん、お前が悪い」

「馬鹿。もうみんな知らない」

 女の子は走り出した。それを追う者と残る者とに分かれた。

「なんかごめんね、シャル」

「わたし悪いことしました。雰囲気、破壊しました」

「破壊なんて大げさだって。気にするなよ、あいつダイエットしていて、いらついているんだよ」

 シャルは幼い頃、ベイリー家へ引き取られてしばらくは、食べるのが遅すぎるという理由で、ひとりの食事をしていたことを思い出した。

「もう雰囲気を破壊しません。わたし、みなさんと別れます」

「だから大げさだって……あっ」

 シャルも駆け出した。しかし駅とは反対方向だ。

「やっちまった」

「私、追いかける」

 樹里はすぐにシャルを追った。小柄な亜麻色を見失わないように、細心の注意を払って。ここは髪を染めている人が多い。学校では珍しい亜麻色は、かえって目立たなかった。

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