第11話 約束

 シャルは分かれ道で足を止め、きょろきょろと周囲を見回していた。その顔には不安と焦燥が浮かんでいる。樹里が追いつくのは容易だった。

「シャル!」

 遠くから声をかけると亜麻色は一瞬、逃げるそぶりを見せ、しかし親を見つけた迷子のように、樹里のほうへ向かった。途中、何回か人にぶつかり、懸命に頭を下げていた。

「どこに行くつもりだったの。駅はあっちだよ」

「わかりませんでした。樹里、来てくれて助かりました」

「もう帰る?」

「はい。……でも、あの子たち。わたし、あの人たちとは帰れません」

「分かった、じゃあ先に帰るって言わなきゃね。大丈夫、私も一緒にいるから」

 樹里は再び、シャルと手を繋いだ。

 クレープ屋の辺りに戻ると、駆け出した女の子が周りに慰められていた。泣いているのだ。

「どうしたの」

 樹里が男子生徒に聞く。男子は小さな声で答えた。

「あいつ、ダイエットのことで少し病んでいるんだよ。シャーロットさんのせいじゃないから安心しろ」

 シャルはうつむいていた。

「じゃあ私たち、このままこっそり帰らせてもらうから。いいよね」

「ああ。なんか悪かったな」


「わたしは不幸を呼びます。わたしと誰かを破壊します。これは子供の頃からのことです。わたしのシッターはわたしを守るために刺されました。男の子はいつも暴力を受けてけがをしていました」

 誰もいない駅の待合室で、シャルは、そう零した。冷房が効いており、ここは切り取られた空間のようだった。シャルと樹里は隣同士に座り、樹里は片腕を、空いている椅子の背にかけていた。

「食べるのが遅いのは、コンプレックスです。わたしはそのために、小さい頃、家族で食べられませんでした。わたしは人をいらつかせます」

「……」

「それから、病気や暴力の人を呼びます。たくさん殴られました。本当のママもたくさん殴られました。わたしとママは、からだを男の人に、無理矢理セックスされました」

「シャル、ここでしゃべる内容じゃない。話なら、相応しい場所でちゃんと聞くよ」

「ごめんなさい。わたし、また間違えました」

 気の毒なほど背中を丸めたシャルのために、樹里は話題をそらした。

「今日のグループ、シャルはどう思う? 関係を続けたいかな」

「わたし、破壊したので、あの女の子は許さないでしょう」

「なら、もう付き合いをやめよう。もともと、シャルに合うタイプじゃないんだよ」

「それは何によってわかりますか」

「だって、シャルはお嬢さまみたいだもん。過去になにがあったか、さっきの断片しか知らないけど、シャルは教育の行き届いた、品のある子だと信じてる。でなかったら、いまみたいにモテないよ」

「ありがとう樹里……わたし、さっき悪いこといいました。わたしの秘密の一端、わたしがおかしな人だと知ったとき、樹里はおそらく離れます。それまで好きでいさせてください」

「人を好きになるのと嫌いになるのは難しい問題だよ、シャル。許可なんていらない。シャルの好きなだけ、私のことを考えて。私も、好きなだけシャルと一緒にいる」

「一緒にいる、約束、してくれますか」

 差し出された白い手は、以前のように震えていた。シャルには、心に大きな傷があるのだ。樹里はそっと、貴婦人へするように、手の甲に唇を寄せた。顔を上げると、シャルはまた泣いていた。

「わたし、おかしいです。樹里と会って、人形やめたときから、感情がとまりません。泣いてごめんなさい。樹里、はずかしいですか。ごめんなさい」

「ううん、誰もいないし、泣きなよ。泣くとストレス物質も流れていくんだって」

「樹里にあえてよかった」

「私こそ、シャルと友達になれて嬉しいよ」

 シャルはひとしきり泣いたあと、すっきりとした顔で鼻をかみ、ハンカチで目元をしっかりと拭った。鼻の頭は赤くなり、目の周りも擦れていた。まるで子供の泣きかただ。

「たくさん泣きました」

 シャルは晴れやかにほほえんだ。

「樹里、今度、わたしの家きてください。ママがおかし作って待ちます。ママの料理、じょうず」

 仲良くなってまだ間もなくの話だ。樹里は展開が早いと思った。これが海外風なのか、シャルの距離感なのかは分からない。しかし興味はわいた。

「ぜひ行きたいけど、迷惑にならない?」

「ママ、わたしがともだちできたら会いたい言っていました。今度きてください。樹里は初めてのともだち。ママ、きっとよろこびます。そしてボーイフレンドも待っています」

「ちょっと待って。よく分からなかった。家にボーイフレンドがいるの」

「ボーイフレンドは樹里です」

「ガールフレンドでしょ」

「樹里、かわいい男の子みたい。わたし、からかいました。そう、樹里はガールフレンドです」

「泣いたカラスがもう笑ったって、知ってる?」

「カラス笑いますか」

「このいたずらっ子め」

 樹里はシャルの肩を揺さぶった。そして、やりすぎたかと危惧した。

「ごめん、嫌だった?」

「だいじょうぶです。樹里はすきな人。すきな人と触るの、うれしいです」

(あ……)

 樹里は心のどこかが疼くのを感じた。今までに男子としたことのある接触を思い出す。もし相手がシャルだったら――。

「樹里どうしました」

「いや、なんでもない。帰ろうか」

「はい」


 電車に揺られながら、隣を見る。頭半分ほど背の低い亜麻色は、安心しきった顔で乗車していた。樹里の高さから、着崩した襟元に、胸の谷間が少しだけ顔を出しているのが見えた。

「シャル、ブラウスのボタン、あと1個くらい閉めたら?」

「はい」

 素直に従う身体が、電車の揺れで傾いた。それを難なく支えて、樹里はシャルの胸元をチェックする。谷間は見えなくなっていた。

「その制服もどき、これからもお守りになるといいね」

「はい。うつむかず、毅然と、やられたら報復する」

「なにそれ」

「ママがはげましてくれました」

「報復ね……」

 そこはおそらく海外の感覚なのだろう。シャルのママは強そうだ。それがボーイフレンドを待っているだって? 樹里は恐ろしくなった。

「もうすぐ夏休みじゃない。夏休みに入ったらシャルの家にお邪魔するよ」

「なつやすみ、宿題たくさんあるとききました。それは難しいですか」

「教科によるんじゃないかな」

「漢文、わたしとても難しい」

 法則を覚えてしまえば楽だが、シャルの場合、ネックとなっているのは漢字だろう。

「教えようか? 一緒にやって」

「樹里、あなたは天使のようです」

「大げさだよ。シャル、次の駅で乗り換えだからね」

「はい」

 おずおずと、白い手が伸ばされ、指の背で樹里の手に触れる。ベリーショートの少女は、その手をしっかりと握った。人に揉まれながら乗り換えを済ませ、あとはいつもの帰りと同じだった。少女たちは、満員電車の中で、ずっと手を握り合っていた。汗でべたつくが構わない。手を繋いでいると満足できた。

「じゃあね、シャル。また明日」

「さようなら、樹里」

 やや小柄な亜麻色はひとりになった。しばらくすると、あの感触が胸に這う。

(あ、また――)

 痴漢は大胆で、胸をひと通り触ると、少女の下半身に手を伸ばした。

(だめ! うつむかず、毅然と、報復する!)

 しかし人格の根幹から大人しいシャルは、頭が真っ白になって、固まってしまう。手がスカートをくぐり、中に触れた。ただ触るのではなく、愛撫するように、快楽を引き出すように蠢いている。

(いや、気持ち悪い。ママ、樹里――)

 痴漢の指がある場所を強く押したとき、シャルの身体がびくりと跳ねた。泣き擦って赤かった少女の目の周りが、熱を持ち、涙がたまる。調子に乗った痴漢が、ブラウスのボタンを外し、中に手を入れてくる。シャルの足は震え、崩れ落ちそうだった。

(怖い! 気持ち悪い――)


 (シャル)


 いつか聞いた、若い女の声がする。


 少女は、目星をつけた男にごく小さく囁いた。


「私、感じちゃった。おじさんといいことしたい……ちゃんとゴムしてくれるなら」


 電車のドアが開く。

 少女はそのまま知らない男と、どこかへ消えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る