第12話 秘密のお金
シャルの様子がおかしい。朝からずっと落ち着きがないのだ。
「樹里、ほうかご、いえに来ませんか」
「夏休みって話じゃなかったっけ」
休み時間の教室。シャルは樹里の机に張り付いていた。例の派手なグループとは関係が自然消滅していたので、ふたりは蜜月を取り戻していた。
「はい、なつやすみです。だからわたしの誤りでした」
「どうしたの、何かあった? 今日はなんだか変だよ」
「なにもありません」
シャルはうつむき、顔を赤くして耐えるようにした。この反応は、まさか、と樹里が思い立ち、小さくささやいた。
「また痴漢に遭った?」
「わたしたちは、へんなことされてない。だから大丈夫です」
少し変な日本語で答えたシャルを不審に感じながらも、彼女の言葉を受け入れることにした。
「それで樹里は今日きてくれますか」
「間違いだったんじゃないの」
「はい誤りです」
「もう、なんなの一体。本当に大丈夫?」
シャルの顔色は赤いまま変わらない。これはおそらく痴漢に遭っている。2駅、樹里と別れてから2駅の間に何かあったのだ。しくじったと樹里は悔やんだ。親御さんが迎えに来ているという、最寄り駅まで送るべきだったのだ。
「今日からシャルのママのところまで送るよ」
「それはだめです」
「どうして。嫌な思いをしているんじゃないの」
「していません。わたしの自立、わたしはひとりに挑戦しています」
怪しい。怪しいが、言い分はもっともだったし、シャルを信じたい気持ちもある。樹里はこの件を終わりにした。ちょうどチャイムが鳴り、シャルは後ろ髪を引かれるように、自分の席へ戻った。
帰り道、樹里と電車で別れたシャルは、次の駅で降車し、トイレに向かった。個室に入り、スパッツを脱ぎ、スカートをうんと短くした。リボンタイを取り払い、ブラウスの前も広げ、胸の谷間がよく見えるようにした。個室からパウダールームに移動し、鏡を見ながら、カラーリップを塗る。オレンジがかった赤は少女の肌色によく映えた。彼女は満足してトイレを出ると、ホームの階段に近い、とても混む車両の列に並んだ。かがめばショーツが見えてしまいそうなミニスカートは、鞄で隠されていない。
少女は母親に、用事があったので遅くなります、とだけ連絡をした。
電車が来る。ひどい乗車率だ。シャルが『変身』している間にラッシュはピークの時間帯に入っていた。彼女は自分の後ろにどれくらいの人が並んでいるか確認した。ごく少ない。これならドア付近に乗れるだろう。彼女は人の波に飲み込まれた。駅員が乗車客を押し、無理やり詰め込む。少女は、ちょうどドアのところにいた。
電車が走り出してすぐに、誰かの手が胸とヒップを触った。少女がヒップを突き出し、ドアとスカートの前の間に隙間を作ると、そこにも手が這った。スカートをかいくぐり、ショーツの中に手を入れ、女性器を直接触る。痴漢はひとりではないようだ。悩ましい少女は息を荒くした。痴漢を挑発するように。そして顔を上げ、ドアのガラスに表情を写して見せた。小さなシャルはどこにもいなかった。そこにいるのは淫猥な女で、うっとりと性感にひたっていた。
『いないいないおばけ』たちは、やはりここでも、いないいないであり、車内で繰り広げられている痴態に見ぬふりをしていた。
次の駅に着く。男たちは少女を囲むようにして、電車を降りた。人数は3人だった。
「君、いくら?」
少女は指を5本立てた。
「初めてでそれは高すぎじゃね?」
「したいんでしょ。3人いっぺんにだってできるよ。ハードプレイも大丈夫」
「マジかよ。病気とか持ってねえだろうな」
「それはこっちのセリフ。ひとつだけ約束して。動画も写真もだめ。他はクスリでもなんでもいいよ」
「コイツ頭イカれてんのか?」
「まあ馬鹿のほうがあっちはいいよな」
「行こうぜ。変なことしたらただじゃおかねえからな」
男たちは駅を出ると、どこかに電話をした。
「ああそう、おう。で、乱交パーティーといこうぜ」
「乱交パーティー? 聞いていないよ」
「いま言った。あんま大人を舐めるなよ、ガキ」
「車で拾うってさ。嬢ちゃん、俺らは真面目な部類なんだ。撮影しないという約束は守る。他は自由にやらせてもらうぞ」
「約束してくれるのならいい」
駅から少し離れたところに、暗く小さな、公園とも呼べない遊具場所があった。少女はそこに連れていかれ、迎えが来るまで、男の膝で身体を触られていた。薄暗くなってきた空気が、湿気をはらんで、じっとりと重い。
やがて白いバンが来て、4人を乗せて走り去った。
「遅かったのね、シャル」
「うん、面談と、たぶん樹里とお喋りしすぎた」
ベイリー夫人の車に乗るシャルは、疲れたように言った。それらは、彼女の中では真実だった。
「シャルったら、いくら楽しいからってこんなに遅くなっては駄目よ。それにあなたは身体が弱いんだから、気をつけなくちゃ」
「うん、ママ。分かった」
「あなた何か、いい匂いがするわね。ママがかいだことのないシャンプーのような」
「樹里のコロンを貸してもらったの」
「樹里ね。シャル、樹里以外にお友達はできた? この間、大人数で遊びに行ったと聞いたけど」
「駄目だった。私、ある女の子を傷つけたの。泣いちゃったんだ。それに、その子たちは派手で、テンポがすごく速くて……私にはついていけそうになかったの」
「色んな子がいるって分かっただけでも、勉強になったわね」
「ねえママ、私たちはいつまで日本にいるの。パパは日本を見て気が済んだら、中東へ行くと言っていたじゃない? もうあと少しで、ビザも切れるんでしょ」
「どうするつもりなのかしらね」
夫人の声色は冷たかった。
シャルは自分の体の不調を不思議に思っていた。全身がだるく、妙なところが痛んだ。喉の奥もなんだかおかしかった。
「ママ、私は風邪をひいたみたい。喉が変な感じ」
「そうなの? 大変、扁桃腺かしら。高熱の準備をしなくちゃ」
夫人とシャルは途中でドラッグストアに寄り、薬や栄養ゼリーの類を購入した。それから不凍ゲルの枕も2つ。
シャルの足取りは、ふらふらと怪しかった。夫人が額に手をやると、なるほど発熱している。
「早く帰って休まなきゃ駄目ね」
「シャワーは浴びる。なんだか身体が気持ち悪いの。汗をいっぱいかいたから?」
シャルたちはマンションに着き、夫人は栄養価の高い飲み物の準備をして、少女はシャワーを浴びにいった。
あそこがぬるぬるする。それは膣内のローションが垂れてきているからなのだが、シャルには分からない。樹里のコロンの匂いが気になった。シャルは急いでシャワーを済ませ、用意しておいたライナーをあててから、ショーツをはいた。家の匂いがするパジャマを着ると、安心できた。
体温計で熱を測ると38度だった。
「緊急を要するほどではないわね。まずお腹に何か入れなさい。スムージーを作ったから、飲んで」
シャルは、彼女用の小振りなコップから、ちびちびとスムージーを飲んだ。具合が悪いために、普段より遅い。
夫人は以前、娘のこの習性が非常に苦手だった。何を与えても無反応で、まずそうであり、こちらが無理強いをしている錯覚を起こさせた。考えてみれば、よくぞ愛を注げると思うことが、多くある子供だ。この子は12歳のとき『シャル』と呼んでほしいと言ったきり、精神的な成長があまり見られなかった。進歩は着実にしていると思うが、16歳の女の子というより、まだ小学生だ。
「シャル、お友達になれなかった子とは、何があったの。よければ教えて」
「私の食べかたが遅すぎるから、怒らせてしまったの。その子はダイエットをしていて、少し心を病んでいたみたい。私のような体型になりたいって言っていた。私は痩せっぽちで嫌なのに。難しいね」
「そうだったの」
夫人はその少女の気持ちが分かると感じた。愛がなければ、今すぐにでも娘を押さえつけて、その口にスムージーを流し込みたいところだ。喋っていたために、全然飲み進んでいない。
「具合が悪いなら、無理をして飲まなくてもいいのよ。冷蔵庫にしまっておきなさい」
「はい、ママ」
シャルは幽霊のようにキッチンへ消えた。そして自分の部屋に入った。
(プリント……今日もらったプリントだけは整理しておこう)
亜麻色が鞄を開ける。そこには無造作にお金が入っていた。5万円だ。
(なに、これ――)
シャルはぞっとした。どこかで盗んだのだろうか。しかし記憶がない。
(いないいないおばけ、助けて)
慌ててデスクワゴンに入れ、鍵を閉める。鍵も隠した。心臓の鼓動が速い。
夏休みまでの3週間に、引き出しのお金は30万を超えていたのだった。
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