第13話 ドリー

 夏休みに入り、約束どおりシャルの家へ向かっていた樹里が、電車から窓の外を見た。

(シャルはこの2駅の間に、きっと嫌な思いをしたんだ)

 外は高層マンションの立ち並ぶ住宅街だ。樹里の感覚では目玉が飛び出るような家賃のマンション群。シャルの家がお金持ちなのだと分かる。

 樹里は普段のラフ過ぎる服装を少し変え、ターコイズブルーのオーバーサイズサマーカーディガンに、オフホワイトのアメリカンスリーブのタンクトップ、黒のパンツを選んでいた。それは黒いベリーショートの髪と、黒い瞳を持つ樹里によく似合っていた。

 1駅前で、シャルにメッセージを送る。


 ――もうすぐ着くよ。

 ――わたしたちも、もうすぐ。


 私たち、とはママも頭数に入っているのだろうか。単数と複数をはっきりさせる言語を母国語としているシャルならではの表現なのか、あるいはママ離れしていないのかは分からない。樹里に甘えるように『いまの』ママに甘えている亜麻色を想像して心があたたかくなった。


『本当のママもたくさん殴られました。わたしとママは、からだを男の人に、無理矢理セックスされました』


 クレープ屋の帰りに、シャルが零した過去。シャルの何が男を暴力や卑劣な行為に走らせるのだろう。やはり従順で大人しそうな雰囲気なのか。シャルは高校入学時にはすでに人形だった。ならばもっと幼い頃から被害を受けてきたのだ。

(許せない……)

 電車が目的地に着く。樹里は、熱気で足元の空気が歪むホームに降り立った。


 ベイリー家の車は、やはり高級だった。重厚で、アスファルトに吸いつくように走行する。シートも心地よく、無重力空間にいるみたいだ。車で移動する間、シャルはほとんど口を聞かなかった。喋るのは主にママだ。

「あなたが樹里ね。シャルから話を聞いているわ。娘と友達になってくれてありがとう」

「こちらこそ、お世話になっています」

「あら、この子が何か世話を? 逆に迷惑をかけているんじゃないかしら」

「そんなことないです。負担に感じるなら、私はきっぱりと離れますから」

「好きだわ、そういう決断力と行動力。娘にも少しほしいくらい」

 歯に物着せぬ言いかたも、向こう流なのか。後部座席の隣に座るシャルは、静かに窓の外を見ている。

「あら、大人しいわね、シャル。さっきまで樹里が来るってはしゃいでいたのに」

「内緒。恥ずかしいの」

 シャルは困ったように樹里に視線を投げ、眉を下げた。

「まあシャルったら、内気なお人形さんのロッテに逆戻りしちゃったの?」

「ロッテ?」

「最初に私たち夫婦へご挨拶できたのが、ロッテだったのよね」

「ええと、それは愛称ですか」

「そうね。シャーロットという名前は少し長いから、私たちは短くしてしまうのよ、合理的でしょう? 樹里、あなたの名前が発音しやすくてよかったわ。ママの友達は音の並びが大変よ」

 樹里はこのママに圧倒的なパワーを感じた。シャルが押しつぶされていないか心配するほどに。

「シャル、本当にどうしちゃったの? ママがうるさかったわね」

 シャルは英語で答えた。

「そう。ママったら、私の友達なのに、私を押しのけて喋りすぎよ。樹里が驚いてる。ママの覇気はすごいんだから」

「ごめんなさいね、もう着くから、許してちょうだい」

「なんて言ったの」

「ママ、怖いって」

 そう伝えられるのなら、健全な関係なのだろうと樹里は見当をつけた。


 シャルと家族が住むマンションはとても立派だった。まず玄関が広い。広すぎた。それはエントランスと呼びたくなる印象だった。樹里の家のように、たたきのところへ靴が散乱していたりなどあり得ないと、書かれているようだ。玄関にはスリッパが用意されていて、それは樹里を安心させた。敷かれているふかふかの毛皮を土足で踏むなど、できそうになかった。

「いま、飲み物を用意するわね」

「ママ、私はもう部屋に入りたい」

「ええ、いいわよ、もちろん。ママのケーキは後にする?」

「うん、頭を使って疲れたら、食べたい」

 シャルは逃げるように、部屋へ向かった。


「えー、シャーロットさん。あなたまた様子が変ですね?」

「樹里、笑わないでください。口調をどうしたらいいか、私は困惑しました。ママの前で、片言、幼いときだけ、使います。いまこのように話したら、心おかしくなったと思われるでしょう」

「ここには私だけしかいないんだから、普通に喋れば? 流暢な日本語は、2人だけの秘密でしょ」

 2人だけの秘密という言葉は、互いの心をくすぐった。

「秘密……学校の子たちには、言わない?」

「言わないよ。シャルが嫌がることなんかしない」

 亜麻色は落ち着いたようだった。

「で、どこかに掛けさせてもらえるかな。勉強道具、地味に重いよ」

「ごめんなさい。そういえば椅子は机のものだけだね。樹里、使って。私は何か工夫をするから大丈夫」

「この机、大きいからもう1脚、椅子を用意すれば並んで勉強できると思うよ。距離感が近すぎて嫌だったら駄目だけど」

「いっきゃく?」

「椅子の数えかただよ。1脚、2脚」

「そうなの、ありがとう」

「ところでこの部屋、ううん玄関も全部、いい香りがするね」

「花の香りかな。リリィオブザヴァレー……スズランの花。そこにも、ある。私が飾っているの」

 見ると窓辺に、白い可憐な花がたっぷりと生けてあるのだった。

「すごいきれい。まるでシャルみたい」

「どこが?」

「真っ白で可愛くて、純真な感じが」

「……」

 シャルからの反応がないことを不思議に感じて、顔をうかがうのと、ドアをノックされるのが同時だった。

「シャル、冷たいハーブティーよ」

「ありがとう、ママ」

 扉を閉める際、ママは樹里にウインクをした。樹里は自分がボーイフレンドではなくて、よかったと思った。ゴーサインと勘違いするところだった。

 シャルはトレーを机に置き、ハーブティーには手を触れず、ベッドに腰掛けた。喉が渇いていた樹里は、冷たい飲み物がほしいと思った。

「シャル、これいただいてもいい?」

「いいよ樹里。飲んだら隣に座って。あなたをとても近くに感じたい」

 ママのウインクのあとである。樹里はハーブティーを吹き出しそうになった。ハーブティーは香りが高く、さっぱりとしておいしかった。渇きのまま、一気に飲んでしまい、それからやや緊張気味に、可愛い亜麻色の隣へ行った。ベッドのスプリングは、樹里の家のものとは比べようがなく心地よかった。思わず身体を倒してしまう。清潔なコットンブランケットが、外国のような洗剤の匂いを、樹里の鼻腔へ送った。

「ねえ樹里、気持ちいいことしない?」

「うん、このベッド気持ちいい……って、ごめん。勝手に寝た」

 起きあがろうとする樹里は、逆に押し倒された。デコルテを強く突き飛ばされ、コットンブランケットに沈む。

「……っ、シャル!」

 そこにいたのは、シャルではなかった。樹里が初めて見る表情をしている。はちみつ色は爛々と光り、動けば光の筋でも残しそうだ。口角を大人のように上げた唇は、赤い舌で湿らされ濡れている。あまりの驚愕と、美貌に魅入っていると、シャルはゆっくりと顔をおろし、樹里にキスをした。リップノイズを立てて離れる唇。樹里はショックを受けた。キスされたことではない。シャルの様子だ。別人が乗り移っているとしか思えないからだ。

「ふふ」

 妖しい女が、下敷きになっている樹里を抱え込み、首筋に顔をうずめる。襟足の匂いを嗅ぎながら、くすくすと低音で笑い、ボーイッシュな少女の身体をまさぐり始めた。

 樹里は冷静だった。今まで男子と経験したキスと行為は、この場で落ち着いていられるためのものだったのだ。そのように、ピースがはまった。

「シャル、何をしてるの」

「シャルはあなたが好きだから、離れたくないから、身体を結ぼうとしてるの」

 幼女のような舌足らずで言う。

「嘘だね。今さら可愛い声を出しても無駄だ。あんたは、なに」

 シャルは、鈴が転がるようなわざとらしい高音から、耳障りな低音で笑った。


「私はドリー。シャーロットの第4人格よ」

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