第14話 『シャーロット』

「第4、人格……?」

 樹里の頭に浮かんだのは、多重人格――解離性同一性障害だった。ドキュメンタリーや創作物で見たことのある、障害。

「ん……あなたも触れて。私を癒やして」

 ドリーが樹里の手を、自らの胸に導く。服の下の、丸く白いそれへ触れる直前に、はっきりと樹里は拒否をした。

「まだ私はあなたと性行為をすると言っていない。無理矢理は、あなたも傷つくことなんじゃないの」

「それは……」

 ドリーはたじろいだようだった。それから、ドリーから力が抜け、樹里に身体の重みがかかる。樹里はシャーロット・ベイリーの背を撫でた。あやすように。なぜだか分からないが、愛おしみたかった。この障害の人はつらい目に遭ってきた人たちだと聞く。いつかシャルが話してくれた体験を思い出す。


『わたしの秘密の一端、わたしがおかしな人だと知ったとき、樹里はおそらく離れます。それまで好きでいさせてください』


 離れるもんか、と樹里は決めた。こんなに大切で、こんなに心を揺さぶられる人はいない。シャーロット・ベイリーが好きだった。それは恋愛として、好きなのだと、樹里は覚悟を決めた。


「……樹里?」

「うん」

 ドリーは第4人格と言った。シャーロット・ベイリーの中には、少なくとも4人の人格が存在する。いま眠そうに樹里をとらえる人格は誰なのか。

「え、やだ。どうして樹里の上にいるの」

「なんでだろう」

「ごめんね、すぐにどくから」

 これはおそらくシャルだ。表情筋の使いかたと、声で分かる。

「どかなくていいよ、しばらくこうしてよう」

 身体の上にシャルを抱いたまま、再び背中を撫でる。亜麻色は大人しくしていた。

「ママ……」

 なにやら指をしゃぶっているような音が聞こえる。もぐもぐいいながら、樹里の胸に触ってくる。

(シャルは16歳になってもママとこうしてるの? 違うよね。じゃあこれも別の人格かな)

 樹里は声をかけてみることにした。

「お名前、言える?」

 女の子が顔を上げる。いっそ気味が悪いくらい、幼い顔つきをしていた。シャルも幼いが、それの比ではない。

「名前。あなたの名前は?」

 樹里の口元を凝視しているので、日本語が通じていない可能性も考えられた。

「I'm Juri. Your name?」

 こんな感じだだったっけと思いながら、樹里は聞いた。

「Charlotte.」

 シャーロットだ。ではこの子が第1人格? しかし樹里の英語力では、何をどう話せばいいか分からない。困っていると、ドアがノックされた。まずい。

「あ、ちょっと待ってください。あの、その」

 シャーロットは樹里の上からどく気配がない。小柄だとはいえ、しっかり育った身体はそれなりの重量があった。

「もういいかしら。開けるわよ」

「はい……」

 樹里はシャーロットに覆い被さられ、胸を揉まれている。終わった、と思った。




「驚いたわ。不純同性交友をしているのかと思ったじゃない」

「不純……」

 シャーロットのママはお堅いらしい。

 3人はリビングのソファーに移動していた。

「シャーロットのことは、驚かないんですか」

「そういうことも、あり得る子だもの」

 シャーロットはベイリー夫人の膝にまたがり、まだ指しゃぶりをしている。

「そう、ロッテというのは本来の両親に呼ばれていた愛称ではなく、人格の名前だったのね。初対面でロッテと名乗ったのは、私は人形だぞ、という宣戦布告だったのだわ」

 宣戦布告とは、好戦的なお母さんだなあ、と樹里はどこか遠くに感じた。

「どうするんですか。治療をするんでしょうか」

「私は、障害というのは本人や周囲が困っていない限り、個性だと考えているわ。シャルが助けを求めたら、力になる」

「でも……」

「でも? なんでも言ってちょうだい」

「シャルはきっと自力で助けを求められない。友達として、そういう性格、いえ人格が分かります」

「どういうときに、そう感じるの」

 樹里は思い出すために、視線を夫人から外した。その先にはスズランが飾られており、生花のやや青臭い、いい香りを漂わせていた。

「困ったことが起きると、人形のようになってしまうんです。私が初めてシャルに話しかけたのは、シャルが男子生徒の告白を受けていたときですが、足を震わせながら黙り込んでいました」

 痴漢の件が、一番困るのだが、繊細な話なので本人がこうなっている今は、伏せることにした。

「私が気になっているのは痴漢のことだわ。樹里、あなたは知っている?」

 だが夫人は果敢に切り込んだ。

「センシティブな問題なのでシャルに話してほしいと思っていたところです。はい、知っています。あの制服を勧めたのも私です」

 妙な沈黙が流れた。居心地が悪くなるころ、夫人はようやく口を開いた。

「あなたは『大人』かしら」

「どういう意味ですか」

「少し性的な相談をしても大丈夫? いえ、駄目ね。まだ16歳だもの」

「シャルに関することなら、言ってください。嫌なら断ります。我慢しません」

「では聞くわ。この子のショーツがひどく汚れていたことがあったの。それから制服も。あれは粘性のものが渇いたあとだわ。何か知らない? 私はシャルに質問したんだけど、しらを切りとおされてしまって。そのまま洗濯をしたわ」

「いいえ……」

 樹里はショックを受けた。

「ならいいの。ごめんなさいね。私は成人失格だわ。それにしても、軽そうに見えて重いのね、この子。脚が痺れてきた」

「たぶん寝てますよ。そんな感じの姿勢になってます」

「あら、いやだ。じゃあ肩が冷たいのは涎かしら」

 夫人がシャーロットを脇に寝かせる。幼女となった女の子は幸せそうに眠っていた。脚を夫人の腿に投げ出して。成長した女の子が幼い子供のようにワイドパンツの足を広げて、幸福そうに寝るさまは奇妙だった。

「駄目ね。ベッドに寝かせてあげましょう。私は腰を痛めないかしら」

「私がやってみますか?」

「きっと大丈夫よ、ジムで鍛えているから」

 夫人は気合を入れて、シャーロットを横抱きに持ち上げた。樹里がついていって、先回り、部屋のドアを開ける。コットンブランケットをはぎ、シャーロットを寝かせる準備をする。夫人と樹里の呼吸はよく合っていた。

 ベッドに寝かされたシャーロットは、なにやら寝言を呟いて横向きになり、また指をしゃぶり始めた。涼しい清潔な部屋で、花の香りに包まれながら眠る、幼女のような女の子は、平和の象徴のようだった。まるで天使だ。樹里はシャーロットの顔の高さに屈んだ。すると、視線の先に、シャーロットのデスクワゴンからはみ出す、何かの紙が見えた。

(何あれ……お金?)

 明らかに不自然だった。まるで慌てて隠したような。

 夫人は腕と腰を揉んでいる。樹里は本能的に、知られてはならないと感じて、さりげなく夫人の視線から遮る位置に移動した。

「駄目ね、すっかり眠り込んでいるわ。樹里、今日は帰る? 勉強にならないもの」

「もう少し、様子を見させてください」

「いいわ。変化があったら教えて」

 夫人はシャーロットの髪を撫でて、出ていった。樹里がさっそく、デスクワゴンを調べる。はみ出しているのは、実際にお金だった。10,000円札が3枚。引っ張ってみると、次から次へと芋づる式に出てくる。さすがにまずいと思い、1枚ずつ慎重に引き出しに戻していく。それにしてもシャル――おそらくシャルは、なぜこんなにも雑な隠しかたをしたのだろう、まるで見つけてほしいかのように。

(見つけてほしかった。助けてほしかった? シャル、そうなの)

 シャーロットはこんこんと眠っている。樹里は宿題に手をつけることにした。これから何かあったとき、宿題に関して遅れを取らないように。それからいつでもシャルのために動けるように。

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