第15話 1週間ぶりの再会
それから1週間、樹里は宿題を進めに進めた。シャーロットのことを忘れたわけではない。連絡を取ろうと試みるのだが、既読がつくだけで返信はなかったのだ。
(お母さんとも、連絡先を交換すればよかったかもしれない)
シャルはいま、誰で、何をしているんだろう。亜麻色のことが心配な樹里は、シャーロットの家の近くにある、区民図書館で勉強することを思いついた。すぐにトートバッグへ勉強道具を入れ、図書館に飛び出す準備をする。
「姉ちゃん、どこ行くんだよ」
中学生の弟が、ゲーム片手にリビングルームから顔を出す。
「区立図書館。宿題をするの。あんたもちゃんとやりなよ」
「うるせえ」
「母さんは買い物だっけ、じゃあ言っておいてね」
「自分でやれよ、面倒くせえな」
「行ってきます」
シャル、会いたいな。樹里の脳裏に、はにかみ屋のシャルと、幼女で日本語が通じなかったシャーロット、人形だと聞いたロッテ、そして妖しいドリーが浮かぶ。そういえばドリーだけ、シャーロットの略称ではない。何か意味があるのだろうか。ドリーはシャルのことを知っているようだった。樹里なりに調べて、この障害は多くの場合、各人格間のやりとりがないらしいことを知った。もちろん人それぞれ例外はある。
(あのクレープ屋の帰りに、話を遮るんじゃなかった。場違いでも、つらいことを聞けばよかった。きっとシャルは私に拒絶されたと感じている。もう話してくれるか分からない)
今日も快晴だ。熱気が立ち上っている。
考え事をしながら足早に駅へ向かう。暑い。早く涼しい電車に乗りたい。やがて来た車両に飛び込み、揺られていると、シャーロットの最寄り駅近くにきた。
(あっ!)
スピードを落としながらホームに入り、停止準備をする電車内から、シャーロットによく似た女の子が見えた。樹里は急いで降りて、その姿を探した。ホームの端のほうに、電車へ乗らなかった人物が、ひとりぽつねんと立っていた。亜麻色の髪、白く大きめの長袖ブラウス、一見ミニスカートに見える黒のフレアショートパンツという格好だ。胸元は大きめに開いていて、ショートパンツからは細く、しかしなだらかな腿から膝、張ったふくらはぎに引き締まった足首とメリハリのある長い脚が伸びている。これはシャーロットだ。そして、シャーロットの中の誰なのか。シャルの私服は完全防備であるし、ドリーならもっと色っぽいだろう。きっと2人のどちらでもない。樹里は少し考えた。それから自分の顔を両手で覆い、指の隙間から前を見ながらシャーロットに近づいた。
「だーれだ」
驚かせないよう、そっと声をかける。シャーロットはゆっくりと樹里を振り返った。
「あなた、誰……?」
ここにきて「誰」は予想していなかった。
「私は樹里、石井樹里だよ。シャーロット、忘れたの」
樹里は顔を出した。
「誰の知り合い?」
「主にシャルかな。少し知っているだけならシャーロットとドリー、あとロッテ」
「そう」
「そう、って。冷たくしないでよ。私はこの1週間、ずっとシャルに会いたかったんだ」
「私はシャーリー」
「……」
「シャーロットは記憶を消すより、新しく構築することを選んだ」
「どこから始まっているの」
「分からない。あなたのことは知らない」
「シャーリー、とりあえず日陰へ入ろう。日に焼けると痛いんでしょ」
熱中症も心配だ。シャーリーはこの炎天下で汗ひとつ、かいていない。ホームの自動販売機でスポーツドリンクを買い、シャーリーに渡す。シャーリーは受け取ったまま、動かなかった。樹里はキャップを開けてやり、シャーリーに飲むように言った。シャーリーは不思議そうにペットボトルを見つめたままだった。
「まあいいや。どうしてホームのあんなに端っこにいたの」
「……ドリーを知っていると言った」
「うん」
「話したいことがある。家に来られる?」
「もちろんだよ。あなたに会いたくてきたんだから」
「待っていて」
シャーリーはスマートフォンを小さな鞄から出し、通話した。
「ママ『樹里』に会ったの。そう、家に行きたい……分かった」
「どうだって?」
「迎えにくるから、駅に」
シャーリーの身体が傾ぐ。だが自力で踏ん張って耐えた。
「大丈夫? 熱中症になってないかな」
「ええ」
2人はちょうど来た電車に乗った。
夏休みの昼、学生がいない電車内は空いていて、2人並んで座ることができた。シャーリーはやはり具合が悪そうだった。そして息を切らしている。
「走って、逃げていたの」
「何から」
「男の人」
「また?」
「違う、あの女が呼んだ」
「あの女って誰のこと」
「プライベートな場所で話したい」
シャーリーはシャルやシャーロットより、常識的で大人のようだった。
電車はすぐに目的駅へ着いた。シャーリーが落ち着く前に。ロータリーの日陰を探して、樹里はシャーリーを支えながら歩いた。木陰とベンチを見つけ、座る。
「分かった」
「え、なに急に」
「さっきの筒状のもの。あれは飲み物」
「そうだよ、言ったじゃない。飲みな」
常識的だと思ったのは間違いか。シャーリーはシャルそっくりにペットボトルを傾けた。よく見ると、今まで樹里が会った『シャーロット・ベイリー』の特徴がさまざまに含まれている。彼女が主人格なのだろうか。だが主人格がペットボトル飲料を知らなかったり、樹里を知らないのはおかしい。
「ママが来た」
見ると、いつぞやの車からベイリー夫人が手を振っている。
「行きましょう」
シャーリーはおぼつかない足取りで、車へ歩いていった。
「ハイ、樹里。こんにちは。元気だった? また会えて嬉しいわ。私はあなたのことが好きよ」
先制でこれである。夫人は元気なようだった。
「それでシャーリー、用事は済んだの」
「済んだ」
「ベイリーさん、シャーリーを知っているんですか」
「ええ。1週間前、あなたが帰ってからしばらくして目を覚ましたら、この子になっていたわ。おおむね、バランスの取れた子ね。記憶や、ものの扱いかたが欠落しているけれど。シャーリー、樹里を思い出したのね」
「思い出したんじゃない。知ったの」
3人は乗車した。
「シャーリーはシャーロットの色々な要素が入り混じっていると思いませんか」
「そうね。でも私たちは専門家ではないわ。素人判断は危険よ」
「シャーリーが主人格っていうの? それなのかな」
「シャーロットには、シャーロットとして生きた、私も里親センターで聞かされた以上には知らない、6歳までの幼少期がある」
夫人が鮮やかなハンドル捌きで、車を走らせる。
「私を置いて話を進めないで。家でちゃんと説明する」
シャーリーが細い声で抗議した。抗議、反抗の類は、今までうまくできなかったことだ。
「あら、ごめんなさい」
「樹里」
シャーリーは、シートについていた樹里の片手に、自分の手を重ねた。
「シャルが、あなたを好きだと言っている」
「シャル……出てこられない?」
「駄目。今は不安定」
「そっか。いいよ、待っている」
「返信、できなくてごめんなさい。あなたのことを、知らなかったの」
樹里には、シャーロットの可愛い声を聞いているだけで十分だった。涙が出そうになる。
「途中で少し買い物をするけれど、何か必要なものはあるかしら」
「大丈夫です」
「まあ、どちらにせよ、あなたたちにも降りて一緒に来てもらうのだけどね。昨日も子供を車内へ置き去りにするというニュースを見たわ。恐ろしいこと」
「エンジンとエアコンつけていてもらえれば、たぶん平気な歳ですけど。ベイリーさん、もしかして『世界一過保護な国』のご出身ですか」
「過保護で結構よ。過保護にしていても、この子には不幸が降り注ぐのだから」
混雑しているスーパーマーケットで、夫人は食料品を買った。サーモン、ターキー、ズッキーニ、ハニーマスタードやハーブ等等。ハニーマスタードはどういう味だろうと、樹里が思ったとき、シャーリーが言った。
「樹里、手を繋いで。私がはぐれないように」
顔つきは違うが、シャルがいつもそうしていた言動だ。樹里は快く手を繋いだ。
「ありがとう」
シャーリーは、やや固い表情でほほえんだ。それはやはり、シャルと友達を始めたころの面影が色濃いのであった。
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