第16話 動揺

 女性3人はマンションについた。夫人は樹里をリビングルームに通し、シャーリーが飲み物の用意をし始めた。

「樹里はオレンジとカモミール、どちらが好き?」

「えっと、オレンジって甘いの」

 カモミールって花だっけ、と考えながら樹里は答えた。

「香りだけ。味は甘くない」

「じゃあオレンジがいいな」

 香りが想像しやすいほうを選ぶ。

「分かった。ママ、冷蔵庫に食料品をしまうの、手伝う」

「ありがとう、シャーリー」

 なるほどシャーリーという人格は、バランスがよかった。具体的にいうと、年相応に見えた。シャルは幼く可愛いらしい印象を受ける子だ。シャーリーがお茶を運ぶ。足元は、もうふらついていなかった。座っていられたのと、涼しさで回復したのだろう。男から走って逃げるとは、いったい何だったのか。

「お話へ入る前に少し休みましょう。今朝作ったチョコレートパイがあるの。もう十分冷えたところね」

 夫人はそう言い、キッチンに消え、次には菓子を乗せた皿を3つ、トレーで持ってきた。

「さあ、食べましょう。ママの得意菓子よ」

 樹里はチョコレートとたっぷりのココナッツ、柔らかい生地が層になったそのお菓子を1口食べた。とても甘い。死んでしまいそうなほど甘い。だがおいしかった。

「カロリーがすごく高そうですね、じゃなくって、甘くておいしいです。ココナッツも香ばしくて」

「カロリーを気にしていたら、人生、損をするわ。摂取したら動けばいいのよ。シャーリーはどう?」

「……おいしい」

 やはりシャーリーはシャルに似ているのか、食べかたが、ちびちびしていた。いや、もともとシャーロット、樹里にはファミリーネームが分からない、6歳までの『シャーロット』の特性かもしれなかった。

「シャーリー、私はあなたのことを好きになれそうだよ。よろしくね」

「そう。ありがとう」

 知り合ったばかりの、まだ甘えてこないシャルのようだ。

 夫人と樹里がお菓子を食べ終わり、シャーリーが半分もいかないころ、フォークは置かれた。

「私の話をしてもいい?」

 その言葉に夫人はゆったりと、樹里は緊張して構えた。

「私が生み出されたのは、ドリーの消去と、『シャーロット・ベイリー』の統合のため」

 鈴のような声は冷静に、そう宣言した。

「その『シャーロット・ベイリー』には、6歳までのあなたも含まれているのかしら」

「入らない。彼女は愛情で満たされれば自然に成長して、私たちと同じになる。彼女のトラウマは、愛がアルコールと暴力で奪われたこと。ベイリー夫妻にはない要素。放っておいてもいい」

 アルコールと暴力。樹里は初めて知る、シャルの生育歴にショックを受けた。

 シャーリーは自分の膝に置かれた手を見つめながら続ける。

「問題はドリー。あの異質な女。そして私たちには秘密がある。今から見せる。来て」

 黒いフレアショートパンツを翻して、シャーリーはソファーから立ち上がった。夫人と樹里がついていくと、そこはシャーロットの部屋の中だった。

「いやね、思春期だからって、隠していいものと駄目なものもあるのよ、シャーロット。それで、何を見てほしいの」

「……て」

「なあに?」

「あっちにいって! 嫌! どうしてわたし、ここにいるの、記憶が、記憶がまた抜けている!」

 シャーリーは突然、錯乱した。髪の毛をつかみ、頭を振る。

「シャーリー?」

「違います、これは……たぶんシャル」

 シャルは大きめに開いた胸もとを隠し、フレアショートパンツの裾も下に引っ張った。

「樹里、駄目。あなたにだって知られたくない。わたしは誘っている女の子じゃない! 出ていって、お願い向こうへいって!」

 シャルは悲痛な叫び声で、出ていけと繰り返した。ちょうどデスクワゴンを背にしている。樹里はとっさに、あの隠された紙幣を思い出した。

「シャル、怖いものはそのワゴンの中のものじゃない?」

「嫌! 違う、わたしは何もしていない! わたしじゃない」

「分かる、分かるよシャル。大丈夫、落ち着いて。手を握るよ、ほら。助けてあげる」

 助けるという言葉に、シャルは反応を示した。

「たすけて、くれるの……?」

「そう、助ける。守ってあげる。私のところに来て、いい子だから」

 シャルは樹里に、泣きながら抱きついた。

「樹里、会いたかった。わたしは今までどこにいたの? だめ、樹里でも見ちゃ駄目。あなたに嫌われたくない」

「もう見ている」

 樹里が声を潜めて、シャルに耳打ちをする。

「お金のことでしょ?」

「なんで……しっているの」

「ごめん、はみ出しているのを、前に見た。シャーロットがベッドで眠っているときに」

「わたし、樹里の前で寝てなんかいない。なんのことを話しているの。樹里もわたしをおかしくするの?」

「そうだね、寝ていなかったかな。私の勘違いだったかも」

「うそ。うそをついているんでしょ。離して!」

 シャルは身を捩って樹里の抱擁から抜け出し、窓から飛び降りようとした。もっとも、窓は少ししか開かないし、開いたとしても転落防止の格子があるのだが。

「どうしてよ! もう死にたい、生きているのは嫌!」

 今度は部屋から駆け出し、キッチンへ行く。注意深くシャーロットと樹里を監視していた夫人が、刃物を取ろうとするシャルに体当たりをして押さえつけた。

「ママはあなたに死んでほしくて育てたんじゃないわ。落ち着きなさい、シャーロット」

 シャルは泣きじゃくった。小学生のように。

「そう、やはりこの子は初めて表出したときと同じ、12歳の女の子なのね。大丈夫よ、シャル。ママ怒らないから、秘密のものを見せてごらんなさい。ママはあなたを守れる大人よ」

「まもってくれなかった! 大人も周りも、いないいないおばけだらけ。誰も信じない!」

「今までに何かあったのね。ママは気付けなかった。謝るつもりなどないわ、私なりに愛してきたのだから。足りないことを要求して。応えてみせる」

「じゃあ死なせて!」

「それだけは許しません」

 樹里も黙ってはいなかった。感情のままに懇願する。

「死ぬなんて言わないでシャル! 私、シャルのこと大好きだよ。シャルに会えなくなるなんて耐えられない。お願い、生きよう? 一緒に生きよう」

 シャルは全力で暴れたが、のしかかる夫人を動かすことはできなかった。苦しくなったのだろう、激しく息を切らしながら、全身の力が抜けていく。なおも暴れていたが、やがて静かになっていった。

「シャル? いやだ、固めすぎたかしら」

 夫人がゆっくり、どいてみると、シャルは目を閉じていた。

「シャル、シャーロット!」

 慌てて身体を揺さぶり、頬に刺激を与える。しばらくすると、シャーロットはまぶたを開けた。冷静な顔つきをしている。今度はシャーリーだ。

「……とても疲れた。あの子も消耗した。これがきっと、今日最後のチャンス。今日は入れ替わりすぎた。今度こそ、秘密を見せる」

「何があるというの、シャーロット」

 シャーリーは黙って再び自室に入り、小物入れの底から鍵を取り出すと、デスクワゴンの引き出しを大きく開けた。

「これが、問題のもの」

 そこには10,000円紙幣が無造作に、数10枚入っているのだった。

「シャーロット・ベイリーの中の『ドリー』。あの女が、身体を売って得たお金。今日もSNSで連絡をとった男に会った。だから私は、ホテルへ入る前に逃げた。あの女は身体を売ることで、自分を傷つけている。愛されるシャルが、性的被害を肩代わりさせるシャルが、憎いから。これは私の手に余る事柄。『シャーロット』は幼すぎて何も分からない。私も『シャーロット』に暴行の話を聞かせたくない。あの子は聖域、私たちの希望。だから力を貸してほしい」

 淡々と紡がれる言葉の列。

 シャーリーは、とくに夫人へ助けを求めたのだった。

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