第17話 居場所

 ベイリー夫人は顎に指を当てて考えた。シャーロットは未成年者だ。確実に性犯罪に『巻き込まれて』いるケースになる。だがビザが間もなく切れるいま、総領事館に行って被害を訴えても、まともに捜査がなされるかは難しいところだった。

「シャーリー、よく聞いて……いえ、あなたが『ドリー』ね?」

 シャーロットは大人びた妖しげな顔つきになり、人を食ったような目で、夫人と樹里を睥睨していた。

「……シャルという子供は死にたがっているわ。あの卑怯者。性的なことは私に押し付けて、被害者面をする。そう、これは私自身を売ったお金よ。悪いかしら」

「あなたはまだ子供です。責任能力がないのだから、好きに生きていいわけではありません」

 夫人は厳しく言った。

「私は22歳。もう大人よ」

「法律はそれを認めない。あなたはまだ、私たち夫婦の監督下にある」

「何が『私たち』よ。愛なんかないくせに。私を引き取ったのもステータスのためでしょ」

「夫婦関係について弁明はないわ。けれど、あなたを愛していることは譲らない。ドリー、知らない男性とのセックスは楽しいかしら?」

 ドリーは顎を上げて答えた。

「楽しいわ。シャルが泣き喚くのは、とても楽しい。あいつを不幸にしたい」

「私は、あなたに、セックスが楽しいかと聞いているの。人格間の関係なんて、いまは聞いていないわ」

「楽しい。とくに脱法薬物が最高ね。飛んでしまうの」

 突然に乾いた音が鳴り、夫人がドリーの頬を張ったことが、一瞬置いて理解できた。

「ドラッグですって? いい加減になさい」

「じゃあ私はどうすれば、私を癒やせるのよ? 愛情を受けるのは私以外だけ、私は汚れた毛虫扱い。私がどんな思いでレイプされたか分かっているの? シャーロットは10歳のときに初めて『怪我』をして以降、我慢できない性的なことは、すべて私に回してきたわ。何が日本は平和よ。この隠蔽社会のクズどもが」

「言葉使いが汚いわよ、ドリー。愛されるにはそれ相応でなければいけない。それで、あなたはいつ、何回、性的暴行を受けたの」

「私がはっきりと表出したのは初潮を迎えた13歳、初めての生理が終わったときよ。学校帰りに回された。ドラッグもそこで吸ったわ。10歳のスクール帰りに拉致されたときには、とにかく痛くて怖いだけだったけれど、あの煙は違った。頭がぼーっとして、私が遠くなるの。そのときは夫人、あなたは何も気づかなかった。私の細工が完璧だったから。絶望したわ」

「あなたは22歳の立派な大人なんでしょう? ママを頼って絶望するのは筋違いね。そう、そしてその後、痴漢にあって怖くなるたびにシャルはあなたを使ったのね。つらかったでしょう」

「つらいと分かっているなら、どうして私を責めるような目で見るのよ! 私は悪くない! 私が壊れる前に、原因のシャルを壊すわ。私を守るためよ。誰も私を守ってくれないから!」

 ドリーが喚く。その声は、怒声というよりは悲鳴に近かった。夫人はゆったりと歩いてドリーに近づき、その細い身体を抱きしめた。

「つらいなら、助けを求めなさい。言うのよ『助けて』って。あなたが22歳の大人だというのが、たとえ真実だとしても、私たちの娘であることには変わらない。ドリー、ごめんなさい。私はあなたの存在に気がつかなかった。嫌な思いを、ずっとしてきたのね」

「なによ、いまさら! 離して。私は樹里を犯してシャルにとどめを刺す。絶望で殺してやるわ」

「いいよ、ドリー。私はあなたとしてもいい。あなたもシャーロットの一部だもん。シャル……ううん、シャーロットのことが好きって、いつも言っているでしょ。全部好きだよ、傷ついてきたシャーロット。私にぶつけて気が済むのなら、好きにして」

「なんなの、2人して急に。ずっと無視してきたくせに! いないものとしていたくせに!」

「あなたがちゃんと、言葉で自分を主張できたから認識できたのよ。いい、ドリー? 言わなくては分からないことも、世の中にはたくさんあるの。何も言わず、訴えず、自分を傷つけるなんていけないことだわ。可哀想なドリー。これからはエレメンタリースクールの子供のように、毎日樹里のところまで送迎してあげるわ。それとも学校までがいい? 私はあなたを守るために、仕事を辞めたんだもの。遠慮しなくていいのよ」

「なによ、もういや。なんなの……」

 ドリーから力が抜けていき、夫人の腕の中で、ぐったりとした。

「この子の身体が熱いわ。熱があるのかしら。きっと疲れすぎたのね。精神を何人分も使ったのだもの。樹里、手伝ってちょうだい」

 樹里は素早くシャーロットのベッドからコットンブランケットをはがし、夫人がシャーロットを寝かせてから、静かにかけてあげた。

「シャーロットは昔から、興奮すると熱を出すの。待っていて。飲み物と不凍ゲルを持ってくるわ」

 夫人が部屋を出ていくと、ドリーは呻いた。

「ちくしょう」

「ドリー、大丈夫だよ。もうひとりにしない」

 ベッドをのぞきこむ樹里に、ドリーが手を伸ばし、その胸ぐらをつかんで引き寄せる。そしてキスをした。深いキス。ドリーは言うほど技巧的ではなく、樹里も受け身だった。

「それじゃ犯された気にならないよ、ドリー。なんだか、可愛い。私が1人の男子としたときはこんな感じだった」

 樹里はドリーにキスをして、鼻息荒く、焦って獰猛な感じに舌を使った。

「どう?」

「気持ちの悪いおじさんみたい」

「ドリーもこうされたの?」

「された。だから嫌な男とキスはしないことに決めた」

「なんだ、ドリーも普通の子みたいじゃない」

「私が、普通?」

 樹里の手が、優しく亜麻色の髪をなでる。ドリーは大人しく、なでられていた。

「ううん、普通とは違うかも。すごく強い子。10歳と13歳のときに乱暴されたんだよね。私だったら死んじゃう。それをあなたは、どうにかして生き延びた。たった1人で抱え込んで生き延びた。すごいよ」

「……」

「シャルのことばかり見ていてごめんね。これからはあなたも守るから」

「……やめて。優しくしないで。私のアイデンティティが、アイデンティティが消える」

「消えても大丈夫なんじゃないかしら」

 夫人だった。

「ドリー、あなただけ『シャーロット』の愛称とは違う名前をしている。あなたにとって『シャーロット』の中は敵だらけなんじゃない、違う?」

 シャリーはドリーを『異質な女』と呼び、他を『私たち』と言っていた。ドリーは涙を零していた。静かに、とても静かに泣いていた。

「ママ、私、セックスするのが嫌だった。怖いから、薬をたくさんやって、オーバードーズになるのも怖かった。怖いのがいっぱい見えて、聞こえて、男たちは私を笑ったり放置したり、好きにしたわ。いっぱい、変なことをされた。もう取り戻せない……取り戻せないの」

「シャーロット、未来を見ましょう。いつか心の傷は癒えるかもしれない。身体は病院へ行ってチェックと治療を受けましょう。必要ならカウンセリングも」

「カウンセリングは嫌。思い出したくない。ママ、樹里。あなたたちは私が嫌いじゃないの?」

「愛しているわ」

「嫌いじゃないよ」

 声は重なっていた。

「分かった、私は消える。いいことを教えてあげるわ。ロッテは消失した。ママが『言わなきゃ分からないこともある』って伝えたから、誤りに気づいたみたい。私も、私こそ言えばよかった……ごめんね、わたし……『シャーロット』、あなたを傷物にした」

「1番悪いのは、10歳と13歳のあなたに乱暴をした卑劣な犯罪者よ。自分を責める必要はないの、ドリー。安心しなさい、可愛い子。あとはママたちがうまくやるわ」

「最後に抱きしめて、ママ」

 ドリーの両腕が夫人に伸ばされる。夫人は、きつく我が子を抱きしめた。

「ドリー……愛しい娘、幸せになりましょうね」

「ママ」

 母娘は抱き合った。しっかりと。まだ明るい空に、17時を告げるチャイムが、遠く聞こえた。

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