第18話 心の孤独
ドリー、いやシャーロットは眠りについた。夫人は、目から流れる涙の筋を拭ってやってから、娘のブランケットを直した。エアコンの冷気から、守るために。
「この子が起きたら、総領事館に話をしてもいいか相談するわ。重犯罪に巻き込まれたのだけど、センシティブな問題よ。人格が不安定なら、何もしないまま日本を離れたほうがいいのかもしれない」
「日本を離れるんですか?」
「ええ、もうすぐ滞在ビザが切れるの。私たちは永住権を取得しているわけじゃない。次は中東へ行くつもりよ」
(そんな、こんなに仲よくなったのに。好きだって、確かめあったのに)
樹里は泣きたくなった。
「ベイリーさん、まだここにいていいですか? シャーロットの顔を見ていたいです」
「もちろんよ。あなたがいてくれれば、安心できるわ。樹里がよければ泊まっていく? きっとこの子も喜ぶ」
「いいんですか」
願ってもないことだった。
「シャーロットの友達を招くのも、お泊りをさせるのも、この子を引き取ってからあなたが初めてのことなのよ。嬉しいわ」
「そうだったんですか」
「ところで、夜はポークとサーモンのどちらがいい?」
「え、あ? お任せします」
「あら、決めるのはあなたよ」
サーモン。サーモンをメインとしたディナーとはなんだろう。樹里には塩焼き鮭しか浮かばない。
「じゃあ、ポークをお願いします」
「分かったわ。圧力鍋でプルドポークを作ることにする」
夫人はいそいそと、シャーロットの部屋を出ていった。あんなことがあったのに、まったく動じていないようだった。まるで鉄人だ。
樹里は少し疲れて、シャルの椅子にかけさせてもらうことにした。シャルの寝顔は、まったくの無表情だった。人形だって、見る側の心を映す表情があるはずだ。いまシャーロットは、どんな状況にあるのだろう。
(シャル……ううん、シャーリーかな)
シャーロットは人格を別けてしまうほど、どれだけのつらい思いをしてきたのだろう。高校入学時から夏にかけての彼女を思い浮かべる。誰とも会話をせず閉じこもっていた、人形のような女の子。中学時代はどうだったのだろう。友達はいたのか。いたとしたら、人形になるきっかけがあるのだろうし、いなかったとしたら、心を閉ざさざるを得ない何かがあったのだ。
『わたしは不幸を呼びます。わたしと誰かを破壊します。これは子供の頃からのことです』
樹里は、いまのところ不幸になっていないし、破壊が降り注ぐとしても彼女のために戦う自信があった。
それにあのお母さん。お母さんがいれば100人力に思えた。ようするに、不幸のいくつかはシャーロットが孤独で誰にも助けや保護を受けられなかったことが原因なのであり、樹里とママがついていれば、これからの人生は少し変わる可能性もあるのだ。たとえ日本を離れたって、いまはインターネットで繋がることができる。会えなくても会話はできるのだ。
この希望を、シャーロットに伝えたい。つらかった分、幸せになろう、と。
「う……ん」
「シャル?」
樹里はシャーロットの目覚めを期待したが、寝言なのだった。
キッチンのほうからおいしそうな匂いがしてくる。調理が進んでいるのだ。
(どうしよう、シャルと離れたくない。食べているときに、ひとりで目覚めたら可哀想だよ)
だからといって、この部屋で食べるわけにもいかないだろう。悩みながら亜麻色の髪を見つめていると、ベイリー夫人が部屋に入ってきた。
「この子をリビングルームへ運ぶわ。目覚めたときにひとりでは心配だもの」
「私も、私もそう思っていたところです! ベイリーさん、すごい」
「私はこの子から断罪されなければならないの。助けを求められない土壌を作ったのは、私も同じ」
夫人は真剣な顔をしていた。難しい横顔が、娘の額をなでる。ただならぬ雰囲気に樹里は飲み込まれた。この母娘にもなにか秘密があるのだろうか。普通じゃない育ちかたをしたと言ったシャルの言葉を思い出す。
「とにかく、食事の支度がもうすぐできるわ。ダイニングへ行きましょう」
ベイリー家の住むマンションはアイランドキッチンとダイニング、リビングルームがひと続きで見渡せるようになっていて、シャーロットの寝かされたソファーが食事をするテーブルからでもよく見えるようになっていた。
シャーロットは深く眠っていた。移動させられてもまったく起きる気配はなかった。完全に無表情な青白い顔は死人のようにも見え、樹里は怖くなった。
「ベイリーさん、シャーロットがこのまま誰も出てこないで、眠ったままになったらどうしましょう」
「そういう場合もあるのかもしれないわね。でも、あなたがいる。きっと、少なくともシャルはあなたに会いたがるでしょう。知っている? この子がどれだけ家であなたの話をしているか。学校の送迎のときもよ。私が認識している限り、初めての友達があなたなの。初めて自ら心を開いたのが、あなたなのよ」
「そうなんですか……。でも、それなら私に会う前はずっとひとりで? えっと、ベイリーさんも6歳以下のシャーロットのことは知らないんですよね。それ以降、学校や友達は」
「私の知る限り友達はいないわ。この子はうちに来た瞬間から不幸だった。それは私たち夫婦のせいでもある。色んなことがあったの。今もこうして問題を抱えている。少しずつ、氷解させていくしかないわ。そして私もこの子への罪を認めなければならない」
また『断罪』の話だ。ベイリー家には何があるのだというのか。
「この子の精神面の調子や、勇気も問われる。さあ、話していても始まらないことは置いておいて、食事にしましょう。何でもない家庭料理だけれど、おいしいと思うわ」
夫人の手料理は素晴らしかった。圧力鍋でほろほろになった豚肉へ、BBQソースがかかっている。マッシュドポテトもおいしかった。樹里はシャーロットの心配をしながらも、食欲旺盛にすべて平らげた。夫人はほほえんでいた。
「あ、すみません。がっついてしまって。あんまりにおいしいので」
「本当に気持ちのいい子ね。やはりあなたのことが好きだわ。うちの子にしてしまいたいくらい」
「私はいつでも大丈夫です!」
「あら、真面目に養子縁組のお話をあなたのご両親に相談してしまうわよ?」
「ちょっ、冗談ですよ! さすがに」
「わかっているわ」
「くしゅん」
「え?」
「いまの聞こえましたか」
「シャーロットかしら」
夫人と樹里がシャーロットの様子を見にいくと、またくしゃみが聞こえた。
「まあ、ブランケットを掛けてあげるのを忘れていたわ」
「私、持ってきます」
「待って」
シャーロットは目を開けた。そしてゆっくりと周りを見渡す。
「樹里、ママ」
「起きたのね、気分はどう?」
「悪くないと思う」
これはシャーリーだなと、樹里は察した。甘えた、自信のなさそうな表情ではなく、凪いで落ち着いている。樹里を見てかすかにほほえんだので、目一杯の笑顔を返す。
「いま晩ごはんを頂いていたところだよ。シャーリーも食べよう」
「ええ」
夫人が、いつの間にか持って来たサマーカーディガンを着せる。
「眠っていたから冷えたでしょう。あなたのベッドからここに移すとき、ブランケットを忘れてしまったのよ」
シャーリーは肩にかけられたカーディガンを着ながら立ち上がった。
「……いい匂い」
「プルドポークよ。食べられそう?」
「うん」
シャーリーは席に着いて、食事を始めた。小鳥のように。
「ママと樹里はデザートを食べていいかしら」
「ええ、食べて」
デザートはフルーツの盛り合わせだった。瑞々しく甘いそれをベイリー夫人と樹里は、あっという間に食べ終えた。
「シャーリー、ゆっくりでいいからね」
「そうね。あなたのペースで食べなさい」
シャーリーは不思議そうにした。
「ママ、キッチンへ行かないの」
「今日は樹里もいるし、ここでお喋りするわ」
「……」
「どうしたのシャーリー。手が止まっちゃったよ」
樹里が聞く。シャーリーは動かなくなっていた。
「ママが……ママが私の食べかたを嫌っているのは知ってる。緊張するから、樹里とはソファーでお話しして」
「シャーリー」
樹里は思い出した。子供の頃からひとりでの食事を強いられていたらしいことを。
「やはり伝わっていたのね」
夫人は否定しなかった。
「虐待と同じだわ。謝りようがないことを、私は、いえ私たち夫婦はしてきた。本当にごめんない。あなたを傷つけ続けたわ」
シャーリーはフォークを置いてしまった。
「シャルは、私の前でちゃんと食べてたじゃない。食事を取らないと、体が温まらないよ」
「樹里、あなたは私をそのまま受け入れてくれる人らしいから大丈夫。ママは駄目。怖い。私はシャルみたいにただ黙ってはいない。悪い感情も言葉にできる」
寝ている間に人格同士の記憶を整理したのか、シャーリーは樹里との食事を知っていた。
「ああシャル。私はなんてことを……」
そのときだった。玄関のほうから物音がする。樹里がどきりとした瞬間、壮年の白人男性がリビングルームに現れた。
「パパ……」
数ヶ月間、旅行をしていたベイリー氏が戻ってきたのだった。
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