第19話 家族

「いい匂いがするな。私の分は残っているかね」

 ベイリー氏が荷物を部屋の端に置きながら言う。部屋は男らしい覇気にあふれた。

「あるわ。でも事前に連絡してくれなくては、こちらも困る」

 夫人は明らかに不機嫌になった。怒った気配をまとい、キッチンに向かう。

「なければないでいいんだ。ただうまそうな匂いだと思っただけだよ。おや、君は?」

「シャーロットの友達の石井樹里といいます。お邪魔しています」

「ふむ、友達か。この人形も友達を作れるようになったというわけだ。感情を取り戻したのかな」

「……」

 シャーリーは、父親には何も言わなかった。

「人形なんて、ひどいんじゃありませんか? 初対面なのにすみません。でもシャーロットは生きた人間です」

「人形は腹話術を覚えたようだ。いい代弁者を見つけたな」

 樹里は怒りを覚えた。

「私を馬鹿にするのは構いません。でもあなたはシャーロットの父親でしょう」

「そうだな、父親だ。ちゃんと養っている」

 夫人が、料理を乗せた皿を持ってくる。ベイリー氏はさっそく食べ始めた。

「うむ、うまい。また料理の腕を上げたのか」

「褒められたって何も出ませんよ」

 シャーロットは自分の皿を見つめていた。ほんの数口しか食べられていない皿を。

「シャーリー、気にしないで食べよう。ね?」

「いいの。食べたくなくなったから」

「そうしてまた食べ物を無駄にする気かね。月並みだが、その皿の栄養で救える命もあるんだよ」

「……」

「代弁者さんは、どう思う。このだんまりをしがちな子供を。友達と言っていたね。どこか利になることでもあるかな」

「私は損得で友達を選びません。シャーロットが好きだから、友達でいるんです」

「この子供が好きだ、と。なるほど見目はいいからな」

 無神経に笑うベイリー氏へ対する怒りを抑えながら、樹里はなぜ夫人が援護射撃してくれないのかと、夫人にも怒りを感じた。夫人はアイランドキッチンに入り、カウンター越しにこちらを見ているだけだ。これでは、シャーロットはひとりだ。もし樹里がいなければ、言いたい放題の父親と、言わせておくだけの母親の間で、うつむくしかなくなる。シャーリーはまだいい、年相応に見える。これがシャルだったら。12歳の傷ついた子供にはつらすぎる家庭環境だ。

「ベイリーさんも何か言ってください! これじゃ、シャルが心を閉ざすのも当たり前です」

「何を言っても無駄な人とは話したくないの、ごめんなさいね」

「シャルの、あなたの子供のためですよ? それでもできないんですか」

 夫人はため息をつき、頭を横に振った。

「君はいつから我が家のひとりになったつもりかね。他人の家のことへ無闇に首を突っ込まないのが、日本人の美徳だと考えているが」

「ベイリーさん、お願い。シャーロットを守るって、助けるって、協力し合えると感じたのは私の勘違いだと思いたくないです」

「……」

「ベイリーさん!」

「うるさい子供だ。失礼な女の子、君は家に帰りなさい」

「嫌です、泊まっていきます」

 樹里は決然と言い放った。

「家長の私が許さん。この子供を送っていけ」

「……命令しないで。あなたは本当に変わらないわね。自分と、自分の得になる者以外は人間だと思っていない」

「その通りだ。だが過不足なく生きてきた」

「不足しているわ。妻からの愛情欠如と、あなたの前でだけ人形のような娘。外ではいい顔をしているけれど、家庭内は不幸よ」

「私の前でだけだって? そうなのかシャーロット。理由を言いなさい。お前が生活できているのは私のおかげなんだよ」

「その考えがおかしいというの。子供は誰でも無力よ。あなたの庇護なんて経済的支援だけじゃない。それどころか言葉の暴力で傷つけているところがマイナスだわ。可哀想に、あなたは実親からそう育てられたのね」

「お前に何が分かる!」

「……やめて」

 シャーロットだった。

「やめて。喧嘩をしないでパパ、ママ……怖い声、嫌い」

 夫人が両手のひらを上に向ける。ベイリー氏は忌々しそうに横を向いた。

 シャーロットの膝で握りしめられた両手の甲に、涙の粒が落ちる。彼女は過呼吸気味になっていた。

「怖い声、しないで。次はぶたれるから嫌。パパ、お願いだから怖い声出さないで」

「私がいつお前を打ったかね」

「ごめんなさい。パパじゃない、初めてと2番目のパパがぶつの。でも男の人の怒った声、怖いから許してください。ごめんなさい」

「ふむ、これが人形じゃない娘かな。はっきり言って人形のほうがましだ」

「ごめんなさい……ぶたないで」

 ベイリー氏は気味が悪そうにした。シャーロットは、家に迎えたときと年齢がそう変わらないような雰囲気で泣いている。この子供はもう16歳のはずだ。これでは幼女と同じではないか。そしてこの引きつる激しい呼吸。どこかに覚えがある。


 ――またお前は1番になれなかったのか。

 ――いくら泣いても無駄よ。体が痺れるですって? 自分のせいじゃない。


「シャル。シャルだよね? 誰もシャルをぶたないよ。私を見て。シャルをぶつパパとママはここにいないでしょ? だからゆっくり呼吸をしよう。ね」

「……紙袋か何かを用意してやれ。過呼吸だ」


 ――なによ、ぜえぜえ言って、わざとらしい。

 ――袋でも与ておきなさい。罰として今夜は物置に入れておく。


「パパ、ごめんなさい、わざとじゃないの、嫌。口を塞がないで! わたしを殺さないで」

「違うよシャル、これで呼吸が楽になるから。ほら、手がもう硬直して閉じてる。息のしすぎだよ」

「痛いことしないで、ぶたないで! 怖い、嫌!」

 シャーロットは駆け出し、しかしドアへたどり着く前に、足がもつれて転んでしまう。

「ごめんなさい、ごめんなさい! いい子にするから、ぶたないで」

「いい子と言うのなら今すぐに黙れ!」

 泣きじゃくるシャーロットをベイリー氏は怒鳴りつけた。

「嫌だわ、また受け入れられない一面を見た。シャーロット、ママがあなたを抱きしめるわ。いいわね」

「ママが?」

 涙だらけの顔が上がる。

「まず鼻をかみましょう。顔がぐしゃぐしゃだわ。そう、いい子よ」

「ママ」

 シャーロットは夫人にかじりつき、また泣き始めた。

「ママあのね、男の子が、男の子が誰かに殴られているの。それで、大丈夫ですかって聞いたら、わたしが乱暴されて……」

「なんの話? その男の子はどこにいるの」

「学校」

「樹里、そうなの?」

「いえ、そんなことはないはずですが」

「ママごめんなさい。男の子にお腹を殴られるから、生理のときに具合が悪いって嘘をついて休んだの。あれは嘘なの。男の子はすぐ転校するって」

(時系列が混乱しているんだわ)

 夫人は自由に話をさせることにした。樹里も神妙な顔をして聞いている。

「通報も保護も、先生たちの仕事だって言っていた。あの子、大丈夫かな。ママ、わたしは、ぎゃくたいをつうほうしてあげますってメッセージボードに書いた。でも黒く塗りつぶされていた。どう思う? いないいないおばけの仕業かな。日本にはいないいないおばけがたくさんいるの。電車でたくさん身体に触られているときも、下半身に男の人の感触が複数あって……複数……」

 性的な話が苦手な夫人は辛抱強くこの話を聞いていた。

「複数あって、どうしたの」

「どうしたんだろう、覚えていない。でもあれは男の人の一部。どうして形や色まで知っているの? あれをどこに、どうするのかも、わたしは知っている。どうして」

「ああ、シャーロット」

「ママとお医者さんは『怪我』って言った。それから、もう子どもは作れないって。10歳のときのあれで、わたしは子どもを作れなくなったの、ママ? それともたくさんお腹を痛くされたから?」

「シャーロット……あの事件を覚えているのね」

「あの懸賞金の事件か」

「そんな言いかたをするのはやめてほしいわ」

「ママ。樹里が泣いている」

「なんで、シャルがそんな――」

 樹里は立ったまま、涙を擦り擦り泣いていた。

「シャル、言っていたね。普通じゃない育ちかたをしたって。シャルが変だって知ったとき、私は離れるって。離れられるわけないよ。私はシャーロットと魂を分け合った仲だと感じている。シャルが周りに破壊を運ぶ? 破壊はシャルに降り注いでいるじゃない」

「いや、確かに破壊を運ぶ子供だ。見ているといらいらしてくる。人の癇に障る、外れの人間だ」

「私は絶対にあなたを許しません、シャルのお父さん」

 樹里は氏を思い切り睨みつけた。

「この子は」

 夫人だった。

「この子は人の傷を生々しく蘇らせる子なのだわ。暴力、性、隠ぺい。誰もが何かしらの傷を負い、塞いでいるものに、また血を噴き出させる。そのような類の子なのよ」

「お母さんまで、何を言っているんですか」

「この子の幼い女性性を見ていると、性差や弁護士になってから受けた激しい悔しさを思い出す。それに、忌々しい案件の数々も。人の心に踏み込んでくるのよ、無意識にね。見た目がいいところまで、罠に思えてくる」

「そんなことを言うのなら、シャルを離してください。シャル、シャーロット。私のところに来て」

 樹里は床に両膝をつき、腕を広げてシャーロットを呼んだ。シャーロットは夫人の腕を抜け出し、樹里の抱擁を受ける。

「シャーロット、いいんだよ。もともと大人と子供は、本当には分かり合えないんだから。そもそも人が、他人とわかりあうことが難しい生き物」

「うそ。わたしは樹里のこと好き」

「私もだよ、シャル。ねえ、実は私も心のドアをシャルに叩かれた。それは、私があなたを好きだってこと。恋愛として。嫌?」

「分からない。でも樹里に男の人の一部が付いていたとしても、怖くない」

「それはまたちょっと違う気がするんだけどね」

「あなたたち、恋と性の話がしたいなら部屋に入りなさい。私は夫と相談したいことがあるわ」

「分かりました」

「樹里」

 夫人はシャーロットと樹里を見ずに聞く。

「あなたの家に、シャルが寝泊まりできる場所はあるかしら」

「私と一緒の部屋でよければ、狭いけれど、あります」

「そう」

 樹里は、きっと次にシャーロットがこちらへ泊まりに来るのだろうと期待した。

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