第2話 命の重さ

 夫人自身が車で送迎するのを選択しなかったのは、仕事を優先したからだ。娘にはバス登校をしてもらいたかった。雇っているシッターはよく気の付く女性で、問題のあるシャーロットをうまく預かってくれていた。

 

 スクールバスの停車場所にシャーロットと夫人はいた。シャーロットはいつも手放さないパペットを持っていなかった。そこは空気の読める、聞き分けのいい子供である。夫人は少しだけシャーロットが可愛く思えた。最近は食事も、細いが毎回食べている。カウンセラーとも話をしたらしい。内容は、親からの暴力と、ネグレクトを受けた体験だった。それならば、心を開かないのも頷けた。口数が少ないのも、里親センターで聞いていた通り、育児放棄のせいだろう。だが、たくさん話しかければ吸収するはずだ。こちらの話に耳を傾けているのは知っていた。それを最初は、聞き耳を立てるいやらしい子供と感じていたが、彼女なりの順応だと振り返れば健気だ。

 

 黄色く塗装されたバスが滑り込んでくる。夫人は運転手に朝の挨拶をして、娘を前に出した。

「おはよう」

 運転手が陽気な笑顔を見せる。

「おはよう」

 オウム返しの声は小さく、エンジンの音にかき消された。

「恥ずかしがり屋さん、早く乗りなさい」

 シャーロットはバスに乗り込む際、夫人をいっさい見なかった。それが夫人の心を醒めさせた。そう、あの子はまだ完全には「うちの子」ではない。あの聡いはちみつ色は、ベイリー夫妻の間に愛情がないことを知っているだろうし、自身に向けられるそれも、上辺だけの偽りであることを感じ取っていると考えられた。

(まあいいわ、もともと『親切心』でしていることだもの)


 車に乗って、夫人は所属している弁護士事務所に出勤した。

 仕事は楽しい。キャリアを積むのが生きがいだった。父も弁護士であり、その背中を見て育った夫人は、同じ道を選択した。同業者が飽和状態の、し烈な競争業界で戦っていくのは、夫人のプライドを非常にくすぐった。おかしなクライアントに当たることさえ、いい経験であり、秘密の日記のタネだった。


 午後4時。ベイリー邸のある高級住宅地では、ランニングをする人たちが多く見受けられた。

 よく整備されたコンクリートの、クッション性がある歩行者用通路を、スタイルのよい人々が走る。人々は己をよく管理し、男女とも覇気に溢れ、美しかった。

 そこから少し外れた小さな公園で、黒いパーカートレーナーを着た男が、林からスクールバスの乗降場所を見ていた。

 周囲はまだ明るい。

 遠くからバスの音がして、男は被っているフードをさらに目深におろした。

 バスが停車すると、子供たちの気配と話し声がして、一帯はにわかに明るい雰囲気を漂わせた。

「さようなら」

 シャーロットは運転手にそう言った。今度は間近なバスの中だ。運転席から、シャーロットの声は聞きとることができた。

「ああ、さようなら。また明日」

 シッターがシャーロットを迎えに来ていた。乗降口から降り立った女の子は、顔を上げず、地面を見つめていた。学校が楽しくなかったのだろうか。いつになったらこの女の子は朗らかになるのだろう。

「シャーロット、お帰りなさい。学校はどうだった?」

「……」

「また、だんまりね。いいのよ、お家に入りましょう」


「あぶない」

「え、なに?」

 

 次の瞬間、シッターの身体は何かに突き飛ばされた。腹部に強い衝撃が走る。押さえると、ぬめる液体が手のひらに付いた。血だ。


「シャーロット!」

 

 シッターはとっさに、雇い主の娘の状況を確認した。シャーロットは黒いパーカートレーナーを着た男の脇に抱えられていた。折れそうな首に食い込んだナイフは、シッターの毛穴という毛穴を粟立たせた。とっさに悲鳴を上げ、スマートフォンを取り出すシッターの顔面を男は蹴り飛ばし、女性がうずくまっている間に、シャーロットを連れ去った。男は元の林の中に入る。シッターが必死で追いかけたときには、すでに誰もいなかった。雨が降る前の湿気で柔らかくなった土に、くっきりとしたタイヤ痕を残して。

 シッターは気丈に、911へ通報した。

「子供が! 10歳の女の子が男に連れ去られました。大柄の男です、フードをかぶっていて、顔と髪の色は分からない。ええ、目の色もよ。お願い早く来てください。私も怪我をしたわ。お腹から血が出ているの、顔も蹴られた!」

 シッターは道路に戻り、周囲にも大声で助けを求めた。すぐ側の邸宅の住人と、ランナーたちが集まり、手当をしながら、落ち着かせようと試みた。

「どうしてなの? 私はちゃんとやってきたわ。神様。この仕打ちはなんなの」

 シッターは嘆き、腹を押さえるタオルは血に染まっていった。



 

 病院の廊下をベイリー氏は急いで歩いていた。娘が拉致され、雇っているシッターが負傷した。そのわりには落ち着いているベイリー氏を、市警が鋭い目つきで観察していた。

 廊下の大きな窓から見える、病室内のシッターは、腕に点滴チューブをつけ、顔にも手当を受けていた。腹の傷は浅く、派手に出血したものの、命に別状はなかった。


 夫人がベッドでシッターと会話をしている。法的な話、そして事務的な内容の話だろう。

「気の強い奥さんだ、たくましい男のような。まるで動揺していない。さぞ頼もしいでしょう」

「妻との間に特別な愛情はもうないのでね」

 ベイリー氏は警察官に横顔を見せたまま言った。

「そうですか。だが娘さんは全力で保護しなくちゃならない対象だ。あんた、何か恨みを買うようなことをしましたか」

「覚えがありません」

 答えて、もう一度、妻を見る。

「妻は弁護士だ。恨みなら彼女が買っているのではないかな」

「夫人の聴取は終わっています。身辺にいる可能性のある怪しい者は現在調査中だ。ふん、弁護士に整形外科の開業医か。さぞかし金が余っているでしょう」

「私的懸賞金を出そう。娘を、シャーロットを早くこの手に取り戻したい」

 セリフだけならば、愛する子供を思っての発言に聞こえたが、ベイリー氏は面倒ごとが嫌なだけだった。


 ベイリー氏が提示した額は破格のもので、署内は電話やメールでパンクした。その中に有力情報があり、シャーロットは間もなく夫婦のもとに帰ってきた。

 

 むごたらしい傷を負って。

 

 シャーロットはかろうじて命を繋ぎとめている状態だった。HCUで、たくさんのチューブに繋がれた娘を、夫人は泣きながら撫でた。

「可愛いと思えてきた矢先だったのよ。賢い子だと思ったわ。問題は色々あったけれど、時間が解決してくれると信じていた。シャーロット……」

 泣きながらベッド脇へかじりつく妻に、芝居がかっていると冷めた感情を抱きながら、医師であるベイリー氏はシャーロットの容体と生きる可能性を考えた。おそらく意識を取り戻すであろうことが、氏の判断だった。それで妻に言った。

「何かジャンクなものが食べたいな。ピザを頼むかい」

「信じられない」

「それだけでは分からない。なにが信じられないのかね」

「あなたの神経が、普通ではないってことよ。よくこの子の、この状態の前で、ジャンクだなんて言えるわね。ジャンク品はあなたのほうだわ。他人の身体にメスを入れすぎて、頭がおかしくなったのね。出て行って。ピザならひとりで食べるがいいわ」

 急にシャーロットへ肩入れするようになった妻を置いて、ベイリー氏は病院を出た。

 

 女の子をさらった犯人は暴行目的の単独犯だった。手口は稚拙で、痕跡も多く残していた。少し金を出し過ぎたかと氏は感じた。育児放棄を受けた子供を引き取り、心を開かせ、学校へ行くまでに回復させたのち、許されぬ犯罪者の凶行により奪われる命。悪くない。

 シャーロットを引き取って分かったことだが、ベイリー氏は子供が苦手だった。なにを考えているか、大人のようには意思の疎通ができない生き物。人間はコミュニケートする生き物だ。意思の交換がうまくいかない相手は、人間ではない。人の形をした肉袋だ。

「肉袋か、いいな。うまいソーセージバーガーを食べよう」

 ベイリー氏は思いつき、車を出して、街の中心部へ走っていった。そして考えた。治安のいい国に行こうと。



 

 氏が選んだのは日本だった。無類の日本好きだからだ。神社仏閣の美しい画像や動画を見て、とても惹かれていた。赤い鳥居というものが、とくにいい。平和な国であるらしいことも有名だ。

 氏は仕事のかたわら、本格的に日本語の勉強を始めた。インターネットでのやり取りや、日本への短期滞在を繰り返し、日本で生活するための準備を整え、協力者を多く得た。行政書士をはじめ、会社経営者、投資家、医師、すでに永住権を得た者など。彼らは快く氏をサポートしてくれた。

 日本語での会話が不自由なくできるようになった頃、ベイリー氏は自分のクリニックを閉院して、家族で日本行きのビザを取得した。

 

 日本では保護者に対する就学義務が、日本国民に対し、日本国内で効力を有すると解されていた。それで、シャーロットが日本語をある程度理解するまで、そしてなにより発語が健全に表れるまで、家でケアをしようということになった。

 事件以来、シャーロットは初めて会ったときのような人形になっていた。言われた通りにはする、いけないと言われたものには従う、しかし自発的な行動はまったく見られなくなった。


 ある日の夜半、夫人が水を飲みに起きると、シャーロットの部屋の明かりがついていた。かすかな物音もする。ベイリー夫人はそっとドアに近づき、聞き耳を立ててみた。シャーロットが、人形遊びをしていると思われる声が漏れ聞こえていた。

 夫人は少し安心した。心を閉ざしてはいるが、喋ることはできるし、ひとり遊びとはいえ言葉のやり取りはできるのだ。

「この子は死んだわけじゃない。こんなに喋って、人形同士だけれども、コミュニケートしているもの」

 夫人は涙し、音を立てず自室に戻った。日本という国が、評判通り平和でありますように。

 弁護士の仕事を辞めた夫人は、娘の未来を願い、祈った。

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