リリィ・オブ・ザ・ヴァレー

三沢なお

第1話 物置の子供

 パパいたい、ぶたないで。

 ママ、シャーロットをしまわないで。

 ロッテは、ここにいる。

 くらいところでひとりにしないで。


 男はアルコール依存症の治療中だった。アルコール依存は不治の病であり、一生涯における断酒が、唯一の生きる道だった。男を支えたのは愛する妻だった。妻は夫の断酒の会とはまた違った共依存の自助グループに通い、ともに回復を目指していた。

 夫婦の間には5歳になる子供がいた。名をシャーロット。シャーロットは亜麻色の髪に、はちみつ色の瞳をした愛らしい女の子で、賢かった。女の子はよく愛されていた。甘い髪の色と同じように。それは一見すると理想的な家族像であり、幸せなときが過ぎていた。

 シャーロットは妻にしか似ていなかった。夫は承知していたが、ストレスが多かった仕事の終わりにどうしても飲酒欲求を抑えきれず、ウイスキーを1瓶、買って飲んだ。スリップだった。

 酔って帰宅した夫を見て、妻は絶望した。夫は妻に人生の鬱憤をぶつけ、暴力を振るった。乱暴はシャーロットにも及んだ。幼い娘を守るため、妻は地下の物置に子供を閉じ込め、隠した。

 

 男の飲酒は毎日のものとなった。起き、まず飲む。酔って暴れては疲れて眠り、起き、また飲む。仕事は早々にクビとなった。罵倒と暴力は毎日続いた。しかしその行為は、ずる賢く隠ぺいされたもので、妻が大人しく、悲鳴をあまり上げないことにつけ込まれていた。男は、もはや娘の知る父親ではなくなっていた。シャーロットは、地下の物置で、怯えながら家の中の音を聞いていた。物置はほこりだらけで、雑多な道具が乱雑に置かれ、薄暗かった。恐ろしいねずみも出た。女の子は泣いていたが、次第に無反応になっていった。

 妻は陰湿な暴力に耐えかねて、DV被害女性シェルターに逃げた。シャーロットを置き去りにして。シャーロットに飲食物を与える人間は、いなくなった。

 男は妻に捨てられたと思い、かんしゃくを起こした。近隣住民は、朝から大きな物音がすること、いたはずの幼い子供を見かけなくなったことで、行政の登録機関に児童虐待の疑いを通報した。

 局員はすぐに男の家を訪れた。男は泥酔していて、受け答えも怪しかった。家を調べると、物置にやせ細った子供がいた。

 

 シャーロットは即時保護され、里親のもとに送られた。彼女には新しいパパとママの愛情が降り注がれたが、心を開くことはなかった。物言わぬ人形のように黙り込み、自発行動は見受けられなかった。里親夫婦の努力もむなしく、シャーロットは次の里親へ預けられた。精神科の治療を受けても、やはり彼女は人形のままだった。

 最後の機会となった次の里親は、医者と弁護士だった。彼らは面談や仮暮らしの際、今までの里親と違いシャーロットに心を開くこと、懐くことへの圧力を加えなかった。押しつけではない感情は、かえって女の子を安心させた。彼女は顔を上げた。

「お名前を言えるかしら」

「……ロッテ」

「そう、ロッテね」

 シャーロットが保護されて以来、初めての発語だった。




 5年後、シャーロット10歳――。

「ぶたさん、こんにちは。ハイ、うさぎさんこんにちは」

 休日の午後、シャーロットはリビングルームで、幼い1人遊びをしていた。

 亜麻色の髪の女の子は、パペット遊びが好きだった。パペットと、たくさんのおもちゃ達。それらは、心に傷を負った内気な女の子の友達であり、他にいない話し相手だった。

 シャーロットの姓はベイリーになっていた。シャーロット・ベイリー。

 里親は資産家だった。ただ、夫婦の間には愛情を偽った仮面があり、外面的には人も羨むような夫婦関係でも、それは演技に過ぎないものだった。シャーロットを引き取ったのも「慈善活動」の一環であり、子供が欲しかったわけではない。

 シャーロットの髪は伸び放題だった。彼女が神経質であり、人に触らせないからだ。髪が伸びすぎると、自分でハサミを入れる。人の持つ刃物に怯えている可能性があるのだった。彼女の本当の親はアルコール依存症だと聞いていた。きっと怖い思いをしたのだろうと夫人は想像し、髪を整えるのはまだいいと考えていた。

 

 シャーロットを迎えたとき、ベイリー氏はまずこの痩せこけた子供に肉を付けることを第一にして、贅沢な高カロリー、高栄養価食だけをシャーロットに与えた。彼女はいつもまずそうに、のろのろと食事をした。美食家でせっかちな夫人は、それにいらついてしまうので、娘とテーブルを共にしなかった。ベイリー氏も忙しく、娘とあまり食事をしたことがない。シャーロットは何とか標準の痩せ体型になった。それは氏を満足させ、次の課題に移る気力をわかせた。


 次はシャーロットの閉じこもりがちな心を開くことだった。ベイリー氏は娘にカウンセラーをつけた。シャーロットは何も喋らず、目も合わせない。時間だけが無為にすぎていった。

 カウンセラーはシャーロットの発達障害を疑ったが、テストの結果、その所見はなかった。では自分の意思で、この子はだんまりを決め込み、心を閉ざしているのだろう。なんて頑固な子供だ。ベイリー氏はシャーロットに嫌な印象を受けた。このみすぼらしい痩せっぽちの、青白い肌で、おもちゃみたいなはちみつ色の目をした子供。品と仕立てのいい、似合わない服に包まれて、まるで小さなクリーチャーのようだ。

 

 ベイリー氏はカウンセリングの帰り道、運転しながら娘に話しかけた。運転はベイリー氏の趣味だった。

「シャーロット、話したくないのなら話さなくていい。食べたくないのなら好きにしなさい。ただ、学校にはちゃんと毎日行かなければだめだよ」

「どうして」

 高く、か細い声が、後部座席から発せられる。シャーロットは学校を休みがちだった。

「お前には教育を受ける権利と、私には受けさせる義務がある。違うパパとママのところに、また行きたいかね。それとも施設がいいかな?」

「……」

 だんまりだった。頑固な子供だ。お互い、しばらく無言のまま車は進んだ。邸宅に戻り、駐車し終わったとき、シャーロットは言った。

「行く、だけでいいの?」

「ああそうだよ。とりあえずちゃんと行ってみなさい。きっと楽しくなるだろう。勉強も面白いよ」

 シャーロットはこくりと頷いた。それは首が落ちたような、操り人形じみた動きだった。伸びきって手入れのされていない髪が、ばさりと顔を覆った。


 翌日。痩せっぽちの女の子は、ベイリー夫人が起こしに行く前からすでに目覚めており、ベッドを整えて、学習机の椅子でいい子に待っていた。

 長かった髪は短くカットされ、清潔な印象になっていた。心境の変化があったのだろうか、シャーロットは夫人に髪のカットを頼んだのだった。髪の重さで癖が伸びていたのが軽くなり、ふんわりとした巻き毛が顔を縁取っていた。こうしてみると、女の子はとても可愛らしかった。表情があればもっといいだろう。

「顔を洗ってらっしゃい。朝食は用意してあるわ」

 シャーロットは従順に階下へ降りて、テーブルの上にある小ぶりのマフィンをちびちびと齧った。飲み物はオレンジジュースだ。夫人は娘が遅刻しないために、食事の時間を区切った。20分だ。シャーロットは20分をかけても小さなマフィンひとつ食べ終えることができないのだった。

 

 ベイリー夫人は娘に着せる服を選んでいた。スカートではなく、裾にフリルがあしらわれた、上品なテーパードパンツをはかせることにした。

 夫人は性的なことを想起させるものが苦手で、下着が下からのぞけるスカートや、ホットパンツの類を嫌っていた。

 細身のボトムスを買ったつもりだが、シャーロットではワイドパンツになってしまった。しかし彼女は細すぎるので、隠せるくらいがちょうどいい。トップスは白いブラウスに繊細なレースが重なったものを選んだ。リュックサックは、シャーロットの青白い肌に映える、鮮やかなオレンジ色のものを使っている。中身はシャーロットが自分で支度していた。

 そこへ、20分の約束を守ったシャーロットが、部屋に入ってきた。

「シャーロット、服を着替えなさい。なるべく急ぐのよ、じきにスクールバスが来るわ」

「はい」

 子供部屋のドアを閉める。

 夫人はシャーロットの世話に満足し、廊下で娘を待った。やがて着替え終えて部屋から出てきたシャーロットの手を引いて、スクールバスの停車場所へ向かい、家を出た。

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