第3話 被虐待児

 都内にある高層マンションのリビングルーム。

 豪奢なソファーから、女性と女の子の声がしていた。気持ちのいい日差しが部屋を明るく照らしている。

「挨拶はね、おはようございます、こんにちは、こんばんはよ」

「おはようございます、こんにちは、こんばんは」

 12歳のシャーロットは夫人の言葉をそのまま繰り返した。

「いまの時間はこんにちはね。一番気持ちのいい言葉は、ありがとうございます。感謝を伝えるときに使うの。お辞儀もするといいわ。お辞儀ってわかる? 頭をこくりと下げるのよ、面白いわね」

「ありがとうございます」

 ふわふわの巻き毛が、首を縦に落とした。

 

 シャーロットは夫人から、日本語を教えてもらっていた。ベイリー家は日本に渡ってきていた。夫人はシャーロットのために、ほとんどの時間を共に過ごし、ときどき外に連れ出しては、環境に馴染ませていた。

 朝の散歩では、子供たちが列を作り、徒歩で通学しているのを見た。一定の間隔で保護者が立ち、安全を守っている。帰りは自由下校のようだった。

 夫人はばらけて帰宅する子供たちを、信じられない思いで眺めた。ひとりで歩いている子供さえいたのだ。

 通報と保護のために、思わず動こうとしたが、ここは日本なのだった。

 娘がもしこの国で産まれ、育っていたら。

 夫人は公共交通機関で無防備に眠る人々も見たし、カフェテリアやレストランの座席で、通路側に鞄を置く人々も見た。

 英語が通じにくいところだけが難点で、しかしそれはこちらが日本語を喋ればいい話だった。

「平和なところに来られてよかったわね、シャーロット」

「……」

 はちみつ色の瞳が夫人を映していた。

 シャーロットはベイリー夫妻の教育や見立てで、魅力的な女の子に成長していた。栄養価の高い食事のおかげで身長が伸び、まだすんなりした手足は、健やかに長かった。関節が身体全体的に、元から柔軟で、おかげで所作も品よく物静かだった。痩せっぽちで、緊張にこり固まり、髪の乱れていた幼女の頃とは、まるで別人のようだった。ただ、年齢での平均値からは外れていて、ベイリー家に来るまでの生育歴と精神的なものから、やや低身長で骨格も頼りなかった。

 そしてつらい生きかたを強いられたこと、まともに学校へ通っていないことから、言葉と学力が7歳児程度だった。特別クラスも考えたが、この子には十分な学習能力がある。できるなら家庭での教育で、一般的な女の子にまで成長させてあげたかった。

 夫妻はもう、おおよその日本語が喋れるようになっていた。ひらがなと、簡単な漢字も読める。

 子供用の学習教材を買い、学校のスケジュールのように時間を決めて、勉強させた。やはりシャーロットの知能そのものは高く、課題をどんどんクリアしていった。

「シャーロット、今日のサンドイッチはピーナツバターとチーズ、どちらがいいかしら」


「……シャル」


「え、なあに、シャーロット」

「わたしをシャルってよんで、ママ」

 シャーロットが初めて夫人を「ママ」と言った。しかもその言語は日本語だった。

「まあシャル、嬉しいわ。それで、サンドイッチはどうしたいの?」

「ピーナツバターがいい」

「じゃあ作るわね。シャルもお手伝いしてちょうだい」

「うん」

 シャルは自発的に手を洗いに行った。なにが彼女の殻を破ったのかは分からない。突然の出来事だった。きっと可愛い卵は中ですくすくと育ち、孵化する瞬間を待っていたのだ。この調子なら学校へ通わせることができる日も、そう遠くないうちにくるだろう。シャルには、かすかにだが表情があった。それは、ほほえみだった。夫人がいままでに見たことのない。

「ママ、わたしはなにをすればいいの」

「そうね、まずパンを取ってちょうだい」

 楽しい調理と、昼食の時間が過ぎた。たいていの場合、重きを置かない昼食が、こんなに充実したのは初めてだった。

「お勉強が終わったら、一緒にお買い物へ行きましょう。今日はシャーロット、いえシャルと呼ぶのよね。その可愛い子が顔を見せた記念日だわ。ママがご馳走を作ってあげる」

 弁護士時代には知らなかったことだが、夫人は自分自身でも驚くほど料理が好きだった。

「ターキーのグリルがたべたい」

「シャルったら、自分の要求を表に出すことができるようになったのね。でもごめんなさい、ターキーは解凍にとても時間がかかるの。生のターキーを売っているお店を知っていればよかったんだけど」

「ママは、なにがたべたいの?」

「ママはラザニアがいいわ」

「わたしもラザニア、すき」

「じゃあ決まりね」

 親子は幸福に笑いあった。笑顔のシャルは、本当に可愛らしい女の子だった。




 シャルは心身とも健康な状態になり、大きく遅れていた学力も実年齢相応に上がった。それで、夫妻は娘を公立の中学校に入学させることを決めた。インターナショナルスクールも考慮されたが、夫妻がすっかり日本を気に入り、この土地の生活をしたかったため、日本の教育機関が選ばれた。

 シャルは日常会話に必要な語学力を有していたし、勉強もひと通りできた。とくに問題なく学校生活が送れるだろうと思われた。

 紺色のセーラー服が、色の淡いシャルによく似合っていた。


「シャーロットちゃんはどこから来たの」

「その髪の毛、可愛いね」

「でも目の色、薄すぎねえか?」

 日本の子供は無邪気だったが、残酷でもあった。とくに容姿の特性に興味を持ち、目の色をからかった。はちみつ色が、パーティーグッズのカラーコンタクトレンズを入れているようだからだ。まるで狼人間だと、ささやき合った。

 それとは違う教育を受けている子供たちは、日本語と英語の両方で頻繁に話しかけ、友達になろうとした。ネイティブの英語を教えてほしいとせがむ子もいた。同い年の友達、というのがシャルにはよく分からなかった。シャルの友達は、いまだパペットたちだった。

「わたし、ことばは、じじょうがあるの。だから、じょうずじゃないの」

「えー? でも私たちよりは話せるでしょ」

 シャルは見目がよく、穏やかだったため、第一印象もいい具合だった。とくべつ仲のよい友達は作れなかったが、学校生活は順風満帆なものだった。


 6月半ば。中途半端な時期に、転校生がやってきた。髪をごく短く刈った男の子だった。彼は明るく挨拶をして、その日のうちにクラスの中へ溶け込んだ。シャルはそれを見て感心した。話しかけられる言葉に短い返事をするだけで、まだ自分から話そうとしたことはないのだ。

 クラスの関心は一気にその男の子に向けられた。彼はひょうきんで、シャルには通じなかったが、有名なコメディアンの真似をし、マンガの話も面白かった。


 ある日の朝、彼はひどい怪我をして登校してきた。頭にはいくつものコブが作られ、赤く割れていた。顔は腫れ、手の指も大きく膨らんでいた。

 あんなにみんなの関心を集めていたのに、生徒たちは彼を心配する様子を見せず、遠巻きにひそひそと話をした。

 ホームルームにクラス担任教師がやってくる。抜き打ちの小テストが行われた。教師は何も言わず、男の子の膨らんだ指にガムテープで鉛筆を固定し、テストを受けさせた。男の子は黙り込んだまま、何も言わなかった。

(あの子も暴力を受けているんだ)

 シャルは胸が痛んだ。大人たちが放置しているのが信じられなかった。自分が受けてきた暴力の記憶がよみがえり、シャルは心がざわついた。

 小テストが終わり、思い切って教師を追いかけて声を掛けるが、控えめなシャルの小さな主張は無視され、教室のドアは音を立てて閉まった。

「だいじょうぶ、ですか」

 男の子に近寄って聞く。大丈夫なわけはないが、とっさに出てきた心配のメッセージがそれだった。男の子は唐突にシャルの頭を殴った。何度も、何度も。強い力で。

「いたいです。やめて」

 クラスメイトは誰も止めに入らない。シャルが頭を守った姿勢でうずくまると、男の子は背中を蹴り飛ばし始めた。

(痛い、怖い、助けて――)

 教室内は静寂に包まれていた。暴力を振るう男の子の激しい息遣いだけが充満する。あれだけシャルと友達になりたがっていた生徒も、ひとりとして動かない。

 男の子は1限目が始まるまで、シャルを蹴りつけ続けた。入ってきた数学の教師も、ふたりの様子を見て、何も言わなかった。

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