第4話 ひとけのない公園
「マジびびる。あいつやばいよ」
「シャーロットちゃん、背中に足跡いっぱいついてるよ。払ってあげる」
1限目が終わり、男の子が教室を出ていくと、クラスメイト達はにわかに息を吹き返した。シャルは女子生徒に制服をはたいてもらいながら、涙をこらえていた。
(どうしてみんな私をぶつの。痛いのは嫌。怖いのも嫌)
「あいつ1週間後にはまた転校するらしいぜ。本人から聞いた」
(1週間……1週間我慢すればいいの? ママに助けを求めたほうがいい?)
「あ、戻ってきた」
男の子は再び教室に入ってきた。そして真っ直ぐにシャルのもとへ近づき、うろたえる彼女を押さえつけ、思い切り腹を殴った。
「かふっ」
シャルが思わず腹部を守ると、がら空きの頭をまた何度も殴りつける。教室は静かになり、シャルと男の子は存在しないかのように扱われた。
2限目の授業中、大きな硬い紙が回ってきた。見ると男の子の名前を中心に、放射線状の短い文章がいくつも書き連なっていた。それはメッセージボードだった。シャルはどうしたらいいのか迷い、混乱した。なぜならメッセージはすべて明るく、聞こえのよい内容で、彼のことを称賛していたからだ。彼の怪我の心配も暴力のことも、なかったことになっている。
――面白い話をいっぱいありがとう。転校しても元気でね!
――物真似すごく似ていた、クソ面白いなお前。たくさん笑わせてもらった。ありがとう。
――体育のサッカーかっこよかったです。向こうでもお元気で。
教師たちと同じだった。悪いことは、すべてないものとみなされている。シャルは怖気が立った。
(どうして、どうして誰も通報しないの。彼とわたしを保護しないの。ここの人たちは怖い)
――ロッテをいないしないで。
幼い声が胸の内に響く。
シャルは耐えることにした。1週間のことだ。ママを心配させるより、我慢したほうがいい。彼女はそういう性格だった。男の子からの暴力は毎日続いた。服から見えるところには絶対に傷やアザをつけなかった。頭、腹、背中、太もも。二の腕。シャルの身体は怪我だらけになった。6月の蒸し暑いなか、体育も上下長袖で参加した。
「シャル。この3、4日元気がないわね。なにかあった?」
夕食を半分以上残した娘を心配して、夫人は聞いた。シャルの顔色は悪かった。
「お腹が痛いの。トイレに行ってくる」
シャルは久しぶりの英語で答えて、椅子から立ち上がった。トイレに消え、慌てた様子ですぐに出てきた。
「ママ、血が! 下着に血がついてる」
「生理かしら」
「せいり?」
腹部を殴られすぎて、内蔵がおかしくなったと勘違いした。
「シャルが女性になった証拠よ。大丈夫、ちゃんと教えるわ」
夫人はシャルに衛生用品を与え、女の子としてあらかじめ伝えておいた以上に、性徴のことを詳しく教えた。
「遅いから心配していたのよ。おめでとう」
「ありがとう、ママ」
口ではそう言ったが、この状態で明日も腹を殴ったり蹴ったりされるのだ。ひどく憂鬱になった。夫人はシャルの沈んだ様子を初潮の心理的なものと、痛みのためだと考えた。鎮痛剤を用意し、休むように言った。
「ママ、明日もすごく具合悪かったら、学校を休んでもいい?」
この状態で腹を殴られるのは、やはり耐えがたかった。
「いいわよ。明日と、つらければ明後日もね。だんだん慣れていくわ。当たり前になっていくものよ。あまりに痛むときや異常だと思えたらすぐに言いなさいね」
「うん」
シャルは翌日、やはり学校を休むことにした。翌翌日も休み、週明けに学校へ行くときには、男の子が転校する日になっていた。
「バイバイ、元気でね」
「じゃあな、頑張れよ」
メッセージボードと小さな花束を手に、男の子は黒板前で笑っていた。
「短い間だったけどありがとうございます。皆さん仲良よくしてくれて、とても嬉しかったです。次の学校でも頑張ります」
ありがとうございますは、素晴らしい感謝の言葉。彼はなにを言っているのだろう、ひどいことばかりだったのに。
男の子はまた新しい怪我をしていた。なにも手当がされていない傷から、赤色がのぞく。
(やっぱり通報してもらおう。あとで職員室に行かなくちゃ)
自分で通報できなかったのは、管轄機関もコールセンターもわからなかったからだ。
送りの言葉と感謝の言葉が終わって、自由時間になった。シャルは担当教師に呼ばれて、教壇に登った。
「ベイリーさん、なにか保護者に話しましたか」
「いいえ。これから、つうほうしてもらいます」
「それは先生たちの仕事だからいいんです。あなたはなにもしないでください。心配はありません」
「でも……」
「帰りに面談をおこないましょう」
「はい」
シャルは頷いた。
「では帰ってよろしい」
ふたりの影だけが伸びる教室。電気はつけられていない。日が傾いてきた中で、黒板の文字が見えにくくなっていている。シャルの懸命な主張はすべて『それは、あなたの国のきまりだから』で済まされた。受けた暴力については、担任教師から謝罪がなされた。少女はもっと言いたいことがあったが、いまいち語彙力が追い付かない。ところどころ英語で話しては、社会科の担任教師を困惑させた。
(意味が全然わからないよ)
廊下には吹奏楽部の部員の、片付けをするにぎやかな音があふれている。校舎の渡り廊下から見えるグラウンドでも、運動部が練習を終わらせる準備をしていた。
わたしは、ないことにされた。シャルは強い孤独を感じた。
帰りが遅くなってしまった夕暮れ。むしむしと湿度の高い空気が蒸れている。さいわい、今日は雨が降っていなかった。日本の雨期はベタベタとしていて、うっとうしい。首から下は濡れてしまうのに、わざわざ顔だけに傘をさす人々も不思議だ。傘がひっくり返っても、さそうとする。レインコートを着ればいいのに。
シャルは道を急いでいた。早く家に帰って、ママの顔を見て安心したい。そして相談を。ここの人たちはおかしい。みんな『なかったふり』が異常に上手いのだ、むかしの自分のように。
悲しいことだった。あの男の子はこれからどうなるのだろう。
物思いに沈みながら歩くシャルの足が、三叉路で止まる。普段と違う道をいけば、公園を通って近道ができる。しかし、その公園はひとけがまったくなく、不気味なのだ。どうするか迷った。
(大丈夫、小さな公園だから)
走り抜ければ、何ともないだろう。まだ外は薄く明るい。ならず者の活動する時間ではない。シャルは足早に帰路を急いだ。どちらかといえば、小走りに。公園に入り、シャルが向かいたい出入り口を目指して走っている途中、突然に男から声を投げかけられた。
「お嬢ちゃん、そんなに急いで、どこに行くんだよ」
声の方向を見ると、いかにもならず者と顔に書かれている男たちが、シャルをにやにやと視線でなめまわしていた。なにかパイプのようなものを吸っている。逃げようとすると、男たちは公園の出入り口を複数人で塞いだ。
とっさに、もと来た方向へ身をひるがえす少女の肩がつかまれる。
「いやっ」
少女は振りほどこうとした。必死に腕を上げ下げして、身をねじる。なんとか男の手が離れた。しかし別の男たちの手が次々に伸びてきて、シャルの身体が引き倒される。男たちは少女の制服を乱し、身体中に手を這わせた。
シャルは声が出なかった。身体は暴れているが、心は茫洋としていた。
――わたしまた乱暴されている。
まだ発達途中の乳房が、無理矢理に揉みしだかれる。痛い。背中が、手のひらが、膝が、頬が地面にこすれて痛い。痛い――。
男のひとりが、呆然としている少女に、持っていたなにかの煙を吸わせた。
ママは私を、もう女性になったと言った。女性。大人の人。大人の女は、こういうときにどうするの?
頭の中で、若い女の声がする。
少女の手が伸び、男に触れる。はちみつ色の瞳が妖しい光を放つ。
下校を始めたのは、17時のチャイムがなってから。それからどれだけ経ったのだろう。赤い夕焼けもとうに過ぎ、周囲は暗い。はちみつ色の少女は買い物を済ませ、身だしなみを整えてから、何事もなかった顔をして、帰宅した。
何事もなかった。本当に、少女には何もなかったのだった。
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